こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。
ガラテヤの信徒への手紙3章24節(参照箇所同書3:21〜25)
パウロは、律法は人間が罪人であることを自覚させるのであって(ローマ7章7節)、それによって人はキリストに至る信仰に導かれるのだから、律法はキリストを教える養育係のようなものだと言います。
律法を守るとは「〜であるべきだ」、「〜ねばならない」がいつも頭の中に駆け巡っていて、ちょうど律法の奴隷になったようなものです。「クリスチャンとはこうあらねばならない」、「牧師はこうあるべきだ」と言っているようなものです。ある意味では、律法から試されたり、叱られているようなもので、辛かったり、苦しかったり、窮屈に感じたりすることがあるでしょう。しかし、そういう律法による試練を経験することは、解放された自由というものに気付かせます。
そういうときこそ律法が養育係の役を果たしているのです。養育係である律法は、信仰によって与えられる自由があることを、不自由な律法の奴隷に閉じこめることで教えるのです。人がもし、信仰生活を不自由と感じるなら、律法の奴隷になっていないかどうか、自己吟味してみるとよいのです。案外、その不自由さを経験することで信仰の自由を獲得することでしょう。