知らないのですか。あなた方の体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
コリントの信徒への手紙一6章19節(参照箇所同書6章12〜20節)
ギリシアのコリントでは当時の宗教的慣習から神殿娼婦との性的関係が公然と認められていました。パウロは、そういう行為を断罪し、「体は主のためにあり、主は体のためにおられる」(13節)のであると主張し、体は聖霊が宿っている神殿であると言うのです。神殿を引き合いに出すのは、神殿娼婦のことが脳裏をかすめているからでしょう。パウロは、ことさら禁欲主義を唱えているのではなくて、信仰は体にも及ぶのだと主張しているのです。
わたしたちは、信仰は精神の領域であって、体は信仰とは関係がないと考える傾向にあります。体を物と見てしまうからです。パウロにとって体は物ではないのです。聖霊が宿る神の宮です。自分のものではなくて神のものである、だから体で「神の栄光を現わしなさい」(20節)と勧めるのです。
事実わたしたちは、体で神の栄光を現している人たちが身近なところにいることを知っています。長年の信仰生活を送り、床に就く毎日を迎えた信仰者に、苦しみを乗り越え死を間近に控えた信仰の友に、身に不自由を抱えつつも信仰を告白するきょうだいたちに、体が神の宮であって、神の栄光をたたえた姿を見るのではないしょうか。