律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。
ローマの信徒への手紙7章7節(参照箇所同書7章7〜25)
律法によって、罪を克服し、神の義(神との関係の正しさ)を得ようとする者は、かえって、「罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました」(5節)とパウロは言います。律法が肉の思いを触発して、罪の結果である死に至らせるほどになっている、それでは、律法は何のためにあるのか、かえって妨げとなっているではないかというわけです。
そうであるなら、パウロは、「では、律法は罪であろうか」(7節)と反問します。人間を律法はかえって束縛し、罪へと誘ったではないか、とするなら律法は人間に対して罪となったのではないか、というのがパウロの論理なのです。
そこで彼は論を変えて、「けっしてそうではない」と断言します。律法は、元来神の御心を表わすものとしてモーセに与えられました。彼はこれをよく知る者でありました。
「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう」と言います。律法が「むさぼるな」と命じるので、「むさぼり」という罪が分かるのである、その意味では律法なしでは、人間は罪を知らないままで過してしまう、律法は罪の正体を暴くためにある、律法とはそういうものだ、とパウロは考えたのでした。