これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。
ヨブ38章2節(参考箇所同書38章2節〜39章30節)
ヨブの苦悩は、神はなぜこのような苦しみをお与えになるのかという問いでした。登場する友人たちは思いつく限りの答えをヨブに教えます(4、8、11、32章等)。けれども人間の答えはヨブに満足を与えることはないのです。
ヨブに神は語りかけられます。しかし、神は答えを語られません。神はヨブに問いかけられるのです。問う者を問う神がヨブの前においでになります。ヨブの問いをさらに問うお方と共に不条理の苦悩をヨブは生き抜いていくのです。
このお方の姿は十字架のキリストにおいて最も明らかになります。キリストは十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたと聖書にあります(マタイ27章46節)。罪なきキリストが神から見捨てられるという、究極の不条理の出来事をキリストは十字架に表わされました。ヨブに代表されるわたしたちの不条理の問いを、キリストご自身もまた共有されるのです。しかしまたそのキリストは復活の主でもあります。復活の主が同時に不条理の苦しみを共にしてくださって、答えのない「なぜ」を一緒に問う者として歩いてくださいます。これほどの大きな答えが他にあるでしょうか。