さて、重い皮膚病(らい病)を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
マルコ1章40節(参照箇所同書1章40〜45節)
主は「宣べ伝えること」、「教えること」と共に「いやし」を働きのひとつとされました。わたしたちが生活上の問題や心身の不都合を訴え、いやしを求めること主の働きの中に自らを置くことです。
教会の中では苦しんだり、悲しみに沈んでいるのは不信仰のしるしである、信仰者は健康で幸福でいつも笑顔でいなければならないとする風土があるなら、それこそ悲しいことです。主のいやしのわざを遠ざけることになりかねません。悲しみや苦しみのときは、遠慮なく主のところへ行って、その本来の働きに与(あずか)るとよいのです。
ここに登場する重い皮膚病の人は、切なる思いをもって主のところにやってきました。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言うのです。清くしてくださいとは言いません。清くできますと断言するのです。主のいやしを信じて、心はいやされるとの確信に満ちています。けれども彼は「御心ならば」と付け加えることを忘れません。いやされることは彼の願いです。しかしいやしてくださるのは、あくまで主御自身である、その信仰を彼は忘れていないのです。