権利は楽しいけど義務はつまらない【聖書からよもやま話421】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、詩篇の100篇です。よろしくどうぞ。

詩篇 100篇2節

喜びをもって主に仕えよ。
喜び歌いつつ御前に来たれ。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

「クリスチャンになるとどんな戒律があるの?食べちゃいけないとかあるんでしょ?」と、よく尋ねられますが、実はキリスト教って数あるいわゆる「宗教」の中でも決まりはかなり少ない方かと思います。食べちゃいけないものはありませんし、日常生活を縛るような決まりもほとんどないかと思います。

そんな中で、クリスチャンじゃなかった人がクリスチャンになった時に起こる、生活上の最も大きな変化と言えばやはり「日曜日に礼拝にいく」ことかと思います。ただこれは「義務」と言うよりは「権利」です。「日曜日に礼拝に行かない者は罰せられる」という性質のものではなく、「日曜日に礼拝に行くと祝福が受けられるよ」というものです。しかし中には「日曜日には必ず礼拝に来なくてはならない!そうでなくては神様に救われない!」と、これを義務のように扱う教会もあるようです。これはもったいないことだなと思います。なぜなら義務には喜びがないからです。権利の行使には喜びがありますが、義務の遂行には喜びがありません。この詩に書いてあることは「喜んで礼拝に来てね」ということです。

義務を毎週欠かさずに遂行することはどんなことであれ、難しいものです。一方で権利を毎週行使することは誰にでもやりやすいことです。同じことでもたとえば「ごはんを毎日食べなければいけない!」と言われたら何となく心にプレッシャーがかかってしまいますし、ごはんが楽しくなくなってしまいそうですけれど、「ごはんを毎日食べていいよ!」と言われたらプレッシャーはありませんし、おいしく食べられそうですよね。ガンプラを作るのだって「作らなければならない」と言われたらやる気が失せますが、「作ってもいいよ」な状態であるので、僕は嬉々としてそれを作るわけです。子どもだって「外で遊ばなきゃだめ!」と言われたら喜んで外に出はしません。「外で遊んでいいよ!」と言われたら喜んで飛び出していきます。

礼拝もこれと同じことです。「しなければならない!」と言われたら喜びが失われてしまいます。「毎週礼拝していいんだよ!」ととらえれば、同じことでも喜びが湧いてきます。

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UnsplashBlake Cheekが撮影した写真

これは礼拝以外のことでもそうです。「毎日聖書を読んで祈らなければならない」と言われたらキツいですが、「毎日聖書を好きなだけ読んで、好きなだけ祈っていいんだよ」と言われたらやりやすくなります。

選挙だって似たようなところがありますよね。「選挙は国民の義務だ!投票せねばならない!」と言われたら嫌になりますが、「選挙は国民の権利です!あなたも投票していいんですよ!」と言われたらちょっとやる気にもなります。そもそも投票というのは権利であるから民主主義の根本をなすのであって、これが義務になってしまったらそれは民主主義とはいえない何かへの道を開くことになるかもしれません。

仕事でも勉強でも、ついついそれを義務としてとらえてしまいがちですが、権利としてとらえると、もっと前向きに取り組めるかもしれません。何事も義務化すると、形骸化しがちです。「形だけやっておけばいいんだろ」と投げやりになりがちです。丁寧な仕事は義務からよりも権利からの方が生まれやすいはずです。喜ぶことって、思っている以上に大事です。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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