目標以上の成果を求めない【聖書からよもやま話317】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、出エジプト記の36章です。よろしくどうぞ。

出エジプト記 36章6節

それでモーセは命じて、宿営中に告げ知らせた。「男も女も、聖所の奉納物のためにこれ以上の仕事を行わないように。」こうして民は持って来るのをやめた。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

イスラエルの民は神様を礼拝するための聖所を作っていました。それを作るために民はたくさんの資材を持ってきました。みんな熱心に資材を持ってきたので、それは余るほどでした。そこでモーセは命じました。「もう十分だから、これ以上資材を持ってこないように!」

何か事業を行うのに、あり余るほどのリソースが与えられるなんて、素晴らしいことですし羨ましいことです。多くの人ならここで、「これだけ予想以上のリソースが集まったのだから、もっと立派な事業をやろう!」と判断するかもしれません。しかしモーセはそうはしませんでした。「これ以上はいらない!もう持ってこなくていいよ、というか、もう持って来ないで!」とリソースの供給をそこで止めてしまいました。

モーセもそこで「これだけあればもっと立派な聖所を作ることができる!」と判断することもできたはずです。しかしモーセにとってそれは正しいことではありませんでした。モーセにとって正しかったのは「神様に命じられた通りのものを作る」ことでした。命じられた以下のものしかできないのはもちろん困ったことですが、命じられた以上のものを作ってしまうのもモーセにとっては同じくらい困ったことだったんです。それは「神様のリクエストと違うことを行う」という点で、同じくらい良くないことだったんです。たぶんもし、神様のリクエスト以上の聖所を作ってしまったら、人間は「私たちはあなたの想定以上の成果をあげましたよ!えらいでしょう!?」と傲慢な心を抱いてしまうからです。人間の御用なら「目標以上」を達成することは望ましいことですが、神様の御用には「過不足なく」といいうのが一番いいことなんです。
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現代には様々な資金調達の方法があります。そこで余るほどの資金が集まるのは一般的には良いことであって、そこで順調にお金が集まれば「集められる時に集められるだけ集めておこう」と、どんどん集める気持ちになるのは自然なことです。クラウドファンディングだって目標金額の100%を越えて150%200%・・・と、たくさんの資金を集めることは広く行われています。しかしモーセはここで「100%達成したのでクラウドファンディング終了です」と、スパッとやめてしまったということです。なんと潔く、なんと度胸のあることか。

料理でたとえるのも分かりやすいかもしれません。料理に必要なのは過不足ない材料であって、材料が多すぎても食べきれないですから困ります。材料が思ったよりたくさんあるからと言って作り過ぎてしまったら、せっかくの料理を腐らせてしまうか、食べ過ぎて体調を壊してしまうか、いずれにしても良い結果にはなりません。料理において、多すぎるリソースは困りものなんです。

多くのカルト宗教は「もっともっと、いくらでも献金をしなさい!」と信徒を駆り立てます。この時のモーセとはまるで正反対のことをしています。「もう十分だからもう献金はいらないです」なんて言えるカルト宗教はいません。一方でまっとうな教会はあるプロジェクトのために献金を募っても、必要が満たされれば「必要が満たされました。ありがとうございます!」とそこで献金を募るのをやめることが多々あります。それはまっとうな教会はみんな、モーセがこのようにしたことを知っているからです。必要が満たされたにもかかわらず、もっともっとと求めることは、まっとうな教会ですることではないんです。「目標以上」を行ってしまえば、誰かがそれを誇り、誇ればそこに不必要な競争が生まれ、競争が生まれれば不和が生まれ・・・と、教会がどんどん健全じゃなくなってしまうんです。もしかしたらカルト宗教というのは、その成れの果ての姿なのかもしれません。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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