どんな「悪人」も「自分は悪くない」とか「仕方ない」と思っています。【聖書からよもやま話82】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにおこしいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、箴言の16章です。それではよろしくどうぞ。


◆箴言 16章2節

人には自分の行いがみな純粋に見える。
しかし、主は人の霊の値打ちを量られる。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)


読んで字のごとくなんですけど、人というのは基本的に自分の思考や行動を「正しい」と思いがちです。「正しい」とまで思わなくても「やむをえない」とか「仕方ない」とか、とにかく自分の行いを正当化しがちです。そりゃそうです、自分の行動を最初から自分で間違いだと思っているのなら、そもそもそんな行動は起こさないでしょうから。ほとんどの場合、人は「これが正しいからこうするのだ」とか「間違ってるかもしれないけど、やむを得ないからこうするのだ」と思いつつ、行動します。

殺人をする人でさえ、「あいつがあんなことをしたからだ!」とか、「世の中が悪いからだ!」とか、自分を正当化します。

詐欺をする人も、「家族を食べさせるために仕方なかった」とか、「欲に目が眩んで騙される奴が悪いんだ」とか、自分を正当化します。

不倫をする人だって、「妻が冷たいからやむをえなかったんだ」とか、「今になって真実の愛に出会えたんです」とか、「悪いことだとわかっているけど、この愛は誰にも止められない!」とか、自分を正当化します。

駐車違反をする人だって、「他に駐めるところがなかったから」とか、「ちょっとの間だから良いと思った」とか、自分を正当化します。

近頃話題の誹謗中傷をする人だって、「これは誹謗中傷ではなく、正当な批判だ」とか、「悪い奴を悪いと言って何が悪い!」とか、自分を正当化します。

とにかく人は、何をするときでも、自分を正当化するんです。自分はあくまで純粋かつ正当な動機で行動しているのだと思いたがりますし、言いたがります。もう、これは人間の性質であり、かつまた限界でもあるのだと思います。自分をまったく正当化せずに何かの行動を起こせる人なんていません。もしいたとしても、あえてはっきり言ってしまえば、その人は明らかにどうかしています。

人間は、その性質上「自己正当化」せずにはいられない存在なんです。だから神様はこの箴言で、「君には君自身の行動が正しいとか、純粋な動機だとかに見えるだろう。でもそれが本当に正しいか、純粋かを判断するのは神である私であるし、君自身には絶対にできないのだよ」と教えているんです。

コロナ禍の緊急事態宣言が解除されて、近頃急に会食が増えました。食べすぎてはいけない、飲みすぎてはいけないと思いつつ、「せっかく宣言が解除されたのだから、たまには少しハメを外そう」とか「今日は久しぶりの人と会ったんだから仕方ない」とか、僕も日々、自己正当化をしてしまっている今日この頃です。小さなことで自己正当化する人は、きっと大きなことでも自己正当化します。自分の行動は自分には正しく見えてあたりまえ、神様からみて正しいかどうか、その視点を小さなことから見直すようにしたいと思います。

それではまた。
主にありて。
MAROでした。

P.S.
昨日、教会に行ったら、北海道でいつもこのコラムを読んでいるという方から、ご丁寧な激励のお手紙が届いていました。この場を借りて御礼申し上げます。とても嬉しかったです。おかげで今日もまた頑張れます。

横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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