【連載小説】月の都(57)下田ひとみ

 

「滝江田の家の買い手が決まったらしい」

「いよいよですのね」

ふみが感慨深げに応えた。

「それにしても、よく決心されましたわね、紘子さん。一人でフランスに住むだなんて」

「子供の頃からの憧れだったんだそうだ。人生の残り時間も少なくなってきたことだし、エルサレムやバチカンを巡って、サンティアゴ・デ・コンポステーラヘの巡礼の旅に出るらしい」

「素敵ですね。でも、子供さんと離れ離れで、寂しいんじゃないかしら」

「子供といっても、もう大人だから」

「でも、親にとったら子供はいつまでも子供ですわ」

ふいに志信がつぶやいた。

「ふみは子供がいなくて寂しくはないのか」

「志信さんは? 寂しいんですか」

「そんなことはない」

怒ったような口ぶりは、照れを誤魔化(ごまか)しているからである。

ふみは隣で小さく笑った。

「私も寂しくなんかありませんわ。志信さんがいてくださいますもの」

風が姿を現し、山の斜面のヤツデやイイギリを揺らせ始めた。

行く手に、地面に枝を伸ばした萩(はぎ)が見えていた。

「志信さん、聖書の黄金律って覚えておられます?」

「自分がしてもらいたいことを相手にもそのようにしなさい」

ふみは微笑して頷(うなず)いた。

「その言葉の意味を、陶子さんは、人を愛することだと教えてくださいました」

行く手の萩を見つめながら、ふみは歩みを進めていった。

「私は陶子さんに出会ったことを感謝しています。たとえそれが短かったとしても、陶子さんと過ごせたひと時は幸せでした。陶子さんがあんなかたちで亡くなってしまって、私はとても苦しみましたけど、でも私はもう苦しむのを止めます。そんなことを陶子さんも望んではいないでしょうから。これからは陶子さんとの美しい思い出だけを大切にして生きていきます。陶子さんは私に、愛することの大切さを教えてくださいました。私は陶子さんを通して、神様を見たんです」

ふみは萩のもとで立ち止まった。

やわらかな陽を浴びて、蝶の形をした花びらが秋風に揺れていた。

 

丸太の小橋に帰り着いた時、辺りには黄昏(たそがれ)が始まっていた。

「綺麗なお月さま」

橋の上からふみがつぶやいた。

澄んだ空に月が出ていた。

「『月の都』という言葉がある」

志信がぽつりと言った。

「唐の玄宗が、中秋の夜に月の都の広寒宮(こうかんきゅう)に遊んだという故事から来ているんだが、初春の話としては月宮殿(げっきゅうでん)ともいわれていてね。月の中の仙女の住む宮殿を指しているんだよ。源氏物語にも歌われている。見る程(ほど)ぞ、しばし慰む、巡り合はむ、月の都は遥(はる)かなれども」

陶子の面影が浮かんできた。

「月の都は遥かなれども……」

ふみは夫の肩にもたれかかった。

「もしかしたら陶子さんは、月の都に住んでいるのかもしれませんね」

志信が広やかに応えた。

「そうだね」

色なき風が通り過ぎていく。

二人はいつまでも月を観ていた。(了)

下田 ひとみ

下田 ひとみ

1955年、鳥取県生まれ。75年、京都池ノ坊短期大学国文科卒。単立・逗子キリスト教会会員。著書に『うりずんの風』(第4回小島信夫文学賞候補)『翼を持つ者』『トロアスの港』(作品社)、『落葉シティ』『キャロリングの夜のことなど』(由木菖名義、文芸社)など。

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