【連載小説】月の都(32)下田ひとみ

 

12

 

紘子(ひろこ)はひまわりが嫌いだった。

それはおそらく夏を象徴する花だからであろう。

焼けるような陽射し。うだるような空気。べとつく汗と耐えがたい暑さ。ぎらつく白日の午後。クーラーが苦手な紘子にとっては、そのどれもが責め苦のように感じられるのである。

その日も、30度を超す猛暑日で、紘子は何もする気が起こらず、応接間のソファーにひとり埋まっていた。テラスに続く窓は開いているのだが、風がそよとも入ってこない。じっとしていても、こめかみを汗が伝う。扇風機のスイッチを入れるために動くのも億劫(おっくう)であった。

どうして生きているのかしら。

紘子は今日も考えていた。

数蒔(かずま)が逝(い)って初めての夏。もはや世話をする人間も、ともに暮らす家族もいない。息子の勲(いさお)は京都に帰っていった。卒業後もここには戻ってこないだろう。「私のことは心配せずに自分の道を歩んで」と、数蒔の葬儀のあとに伝えたからである。

それは紘子の本心であった。

勲はこの家で暮らしてはならない。あの子にはその資格がない。勲は滝江田(たきえだ)の子供ではないのだから──。

それは恐ろしい秘密であった。

紘子は大学時代に、田宮(たみや)という銀行マンと交際していた。田宮は子供の頃から教会へ通っており、田宮の影響で紘子はキリスト教に興味を持ち、聖書を読み始めたのである。

田宮は温和で優しい男だったが、優柔不断な面があった。たとえば、長年教会に通っていても、なかなか洗礼に踏み切れないでいる。それは紘子との関係にも表れていた。結婚について、いつまで経っても煮え切らない態度なのである。

そのうちに滝江田が現れ、紘子の心は田宮から離れてしまった。紘子に対する一途な情熱と、無神論者としての一徹な姿勢。田宮と正反対の滝江田に、紘子は強く惹(ひ)かれたのである。

紘子は滝江田と結婚した。しばらくは幸せな日々が続いたが、いつまで経っても子供ができないことに、やがて紘子は不安を抱くようになった。

病院で診てもらうと、紘子が妊娠しにくい体であることが判明した。とはいえ、まるで望みがないというわけではないらしい。「焦せらないでいれば、そのうち授かりますよ」と、そのとき医師に言われたし、紘子は希望を失ってはいなかった。

しかし現実は、いつまで経っても子供は与えられなかった。

夫婦の間に亀裂が生じ始めたのは、紘子が教会へ通うようになってからである。

夫と同じく無神論者となったはずの紘子であったが、子供ができないという現実に、何かにすがりたいという思いが生じていた。近所に西長坂カトリック教会の信者がいて、聖書の勉強会に誘われた。そこへ出席したのがきっかけとなって、そのまま紘子はその教会へ通い始めたのである。

子供のいない寂しさを紛らわせるためと、数蒔は思っていたようである。紘子にすれば、夫を裏切っているようで心苦しかったので、単純にそう受け取ってくれていることがありがたかった。しかし、洗礼を受けるとなると、やはりそうはいかない。

最初、紘子はそうまでするつもりはなかった。もし神が存在するのなら、「子供を与えてほしい」と、教会でただ祈りをささげたかっただけなのである。

しかし、キリスト教の教えが理解されてくると、洗礼の問題を回避することはできなかった。夫の立場を思うと、紘子の悩みは深かった。

意を決して、ある日、紘子は夫にそのことを打ち明けた。すると数蒔の反応は、思いがけず素っ気ないものであった。

「君がそうしたいなら、洗礼を受ければいいよ」

このとき紘子が味わったのは、深い孤独感であった。

夫はたしかに自分を大切にし、いとおしんでくれている。けれどそれは、たとえばケースに飾った人形を眺めているような、お気に入りの花を手折(たお)ったような、そんな感覚ではないのだろうか。

夫の無関心が悲しく、紘子はひどく落胆してしまった。(つづく)

月の都(33

 






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