【連載小説】月の都(3)下田ひとみ

 

話は前日にさかのぼる。

大学の休み時間に友人の三木から電話があった。

「滝江田(たきえだ)が亡くなった」

それを聞いても志信はそれほど驚かなかった。滝江田数蒔(かずま)は肺癌を患っており、ここ数年は入退院を繰り返していた身である。どこかで覚悟はできていた。

志信が意外だったのは、通夜を教会で行うことであった。

「西長坂カトリック教会?」

思わず聞き返すと、三木の声も困惑気味であった。

「あいつ、死ぬ前に洗礼を受けたらしいんだ」

滝江田は無神論を旨とした作家であった。

世に送り出されたあまたある彼の作品は、どれも高い評価を受け、数々の文学賞を受賞している。また破天荒で豪放磊落(ごうほうらいらく)な性格は仲間うちから愛された。直接彼を知らなくとも、滝江田文学を支持し、その信条を指針とする愛読者は大勢いた。

それなのに──

洗礼を受けたのがもし事実なら、これは裏切りではないか。

志信にはどうしても納得できなかった。それで、事実を確かめる覚悟を持って、昨夜の通夜に出かけていったのである。

電車とバスを乗り継いで、2時間半かかって辿(たど)り着いた西長坂カトリック教会は古い街並みの中にあった。ステンドグラスの窓、彫刻が施された扉。ゴシック様式の荘厳な建物が、周囲に調和して息づいていた。

雨に濡れた坂道に傘の列ができている。玄関に「通夜の集い」と書かれた看板が立てかけてあり、中に入ると、通りまで聞こえていたパイプオルガンの音が大きくなった。

時間通りに式が始まり、祈祷や聖歌の斉唱が終わると、神父の話が始まった。会場が満席だったので、志信は後ろの人垣の中で立っていた。マイクの声が小さかったため、神父の話はほとんど聞き取れなかった。

献花の時を迎えた。

花に埋もれた棺(ひつぎ)に、滝江田は見覚えのある縞のスーツ姿で納まっていた。窪(くぼ)んだ目に、痩(こ)けた頬。還暦を迎えても豊かだった髪が抜け落ちている。闘病でひとまわり小さくなった身体が、縮んだ人形のようであった。ひと枝の白いカーネーションを、志信は故人となった親友にささげた。

式が終わるのを待って、志信は滝江田の妻の紘子(ひろこ)に近づいていった。

背が高く、ほっそりと首の長い紘子は、黒いレースがあしらわれた喪服を黒鳥のように着こなしていた。紘子とは、滝江田の家で何度か顔を合わせたことがあった。親しいというほどの仲ではなかったが、志信は率直に尋ねてみた。

「滝江田が洗礼を受けたというのは本当ですか」

紘子は眼を伏せてひっそりと「はい」と答えた。

「いつのことですか」

「昨夜。病院のベッドで受けました」

「本人の意思ですか」

「はい」

棺の向こうに老年の神父がいたが、このやりとりを耳にして、何ごとか感じたようだった。神父は紘子の隣に来ると、加勢するように言った。

「亡くなられる少し前に、ご本人の希望で、私が病床で洗礼を授けました。代父となった信者も立ち合ってくださっています。奥様の祈りが聞かれたのです。ご主人の救いのためにずっと祈っておられましたから」

滝江田の妻がクリスチャンであることは、三木や志信のような限られた友人以外、世間ではほとんど知られていなかった。

志信の心に怒りが湧(わ)き起こってきた。

いまにも死にそうな病人に、寄ってたかって……

 

それから一夜が明けた。

しかし今日となっても、志信にはどうしても納得ができなかった。そんなはずがない。

絶対に滝江田らしくない。

思いは堂々巡りを繰り返すばかりであった。通夜に行ったことによって、疑念がかえって膨らんでしまったのである。

洗礼を願ったというが、意識が朦朧(もうろう)としていたのではないだろうか。そこにつけこまれて……。本人の意思というが、怪(あや)しいものだ。その場にいたのは教会関係者だけなのだから。

百歩譲って、たとえ意識がはっきりしていたとしても、滝江田は自分がしたことを理解していなかったのではないだろうか。癌の凄まじい痛みが、その意志を弱らせ、精神に変調をきたらせた。もしかしたら滝江田は正気を失っていたのではないだろうか。

そうとまで志信は疑った。

どうしても納得がいかない。考えても、考えても、答えが見つからない。

なぜ、滝江田が?

志信の心の動揺は、いつまでもおさまらなかったのである。(つづく)

月の都(4)

 






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