「ほんまもんのエクソシストや!」 【関野和寛のチャプレン奮闘記】第11回

カルト宗教が起こす社会問題は、病院で働くチャプレンにとって思いっきり逆風だ。チャプレン文化のない日本で、私は幾度となく不審者のように見られてきた。私は当然、布教はしないし、キリスト教牧師であることを前面に出さずに病棟をまわっている。「相談員で、心の問題を扱うチャプレンという職種です」と自己紹介するたび、本当の自分を隠しているような後ろめたさも同時に感じる。

そんな最中、大阪のホスピスから「牧師のチャプレンさんに手を借りたい!」と連絡を受けた。聞くと高齢の男性患者Fさんのホスピスの自室に、亡くなった娘さんが現れるのだという。施設のスタッフ曰く、Fさんは性格が荒く、常日ごろ娘さんとは口論が絶えず、よく怒鳴り合っていたとのこと。そのような関係性が改善されないまま、娘さんが交通事故死。和解することもできず、永遠の別れが来てしまったのだ。

その悲しみと後悔が、Fさんに毎晩、娘さんの幻覚を見させているのではないかとスタッフは思っていた。精神科医も診察したが、Fさんに病名はつかず、軽い精神安定剤を処方したが、毎晩Fさんの部屋に娘さんは現れ続けたのだった。医師もスタッフもなす術がなく、Fさんは日に日に寝不足になり、精神状況が悪くなっていた。そこで「牧師、チャプレンがいる」という情報を聞いて、Fさんは「牧師にお祓いをしてほしい」とリクエストを出してくれた。

やってきた訪問日、私は初めて牧師ガウンに身を包んだ姿をクリニックのスタッフに披露した。1年間、毎週カジュアルなジャケット姿だった私しか見ていなかったスタッフが、突如言った。「おおっ、ほんまもんのエクスシストや!」「ちと俺もお祓いしてもらおうかな……」

そんな大阪のノリに、自分が牧師姿であることを全肯定された気がした。ホスピスに入る。深刻な病状の患者さんたちが、人生の最後の時を過ごされている場。そこへ牧師姿で入ることに、やはり躊躇する。「怪しい宗教者と思われるのが怖い」「誰かの葬式のために来たと思われるのではないか?」などの不安があふれてくる。逆に考えてみると不思議だ。生と死の現場にこそ聖職者は求められているのに、現実はそうなっていないのだ。とにかく私は意を決してホスピスの中に入った。

すると、職員さんが集まってきて言った。「わおっ! ほんまもんのエクソシストや!」「Fさん待ってはりますから、行ってやってください!」 初対面の真っ白ガウンの牧師を、Fさんの部屋に通してくれる。部屋に行くとFさんは小さな笑顔で「よく来てくれました」と迎えてくれた。そして、娘さんのことを話してくれた。これまでの不仲、不慮の交通事故で和解できず、死別してしまったこと。そして毎晩、部屋に寂しそうな顔をした娘さんが現れること。幼いころは一緒に遊園地に行ったこと、「おもちゃを買って」とよくせがまれたこと――。けれども思春期を迎え、反抗的になったある日、Fさんは学歴の低さや仕事をバカにされ、娘さんを殴ってしまった。「その時から修復できない溝ができてしまったんだ……」とFさんは深いため息をついてひと言。「ごめんな……。俺が悪かった……。もう一度やり直せるなら、二度とお前に手などあげない。大切な娘だもの……」

この言葉で十分だと思った。Fさんが語った娘さんとの思い出の数々、そしてあの日の懺悔、これらすべての声は天国に届いていると感じた。お祓いなどしなくても、もう大丈夫だ。そもそもお祓いのやり方など知らない。私はFさんの部屋の真ん中で聖書を読み、そしてFさんの肩に手を置いて、娘さんが天国で安心して過ごしていること、そしてFさんの残りの日々の平安を祈った。お祈り、いや「お祓い」が終わるとFさんは言った。「ありがとう。あんた、ほんまもんの牧師さんやな。娘が許してくれたら天国で会える気がするよ。また来てや」

*個人情報保護の為にエピソードは全て再構成されています。

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