2月9日「教会の愚かさ」

聖パウロは説教の愚かさについて述べている。わたしは教会の愚かさを引き継いでいきたい。教会という団体として活動する様々な方法の中で、これは最も馬鹿げている方法に違いない。つまり、場当たり的な人々は、なにげなく日曜日に会衆席に集い、気乗りせず、好きでもない数曲の歌を歌い、理解の程度や説教者の声の大きさなどに従って、説教に耳を傾けたり、聞き流したり、献身でも不器用で、祈りもたどたどしい。

だが、会衆席に座る人々は深く苦しんでいる人々でもある。彼らはその苦悩の中で神を見出している。この人々たちは愛に献身する男性であり女性でもある。彼らは試みや誘惑を通して、それに誠実であり、義の実を結実し、周りの人々を祝福する霊の果実を実らせる。希望に溢れ、喜びにある両親や友人たちに囲まれた赤ん坊たちは、父と子と聖霊という御名で洗礼を授けられる。福音を通して回心した大人たちは旧知の人々全員を驚かせ、同じように洗礼を受ける。亡くなった人々は、涙と悲しみの只中で、復活への厳粛で喜びに満ちた証をなす葬儀において神の御元へとささげられる。罪人たちは正直に悔い改めをし、信仰を抱いてイエスの肉と血潮に与り、新しい命を受ける。

そして、彼らは他の人々と入り混じり、ほとんどの場合、見分けがつかない。これ以外の形で、聖書的には、わたしは教会を見出すことはできない。

 

友人たちよ、あなたがたが召された時、あなたがたが如何いう者たちであったかをよく考えて見なさい。あなたがたの間では「最も賢く、ベストな人々」ではなかった。多くは影響力のある人々ではなく、上流階級の出身ではなかった。神は敢えてこの世の文化が見捨て、搾取し、虐待したそのような人々を選んだのは明らかではなかったか? 「偉い人」の中身のない見せかけを暴露するために「社会的地位の低い人」を選んだのだ。
― コリントの信徒への手紙(一)1章26~28節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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