3月27日「ゴミと化したオーディオ」

「両耳がない人間の頭」を想像してください。でくの坊である。両目、鼻、口はあるが、両耳はない人間を想像しください。本来、両耳の穴が開いているはずの所がすべすべしている。耳も口も鼻も、それぞれ穴が開いているその頭蓋骨の両脇が、穴を開けることの出来ない花崗岩(かこうがん)のようになっている。そこに向かって神は語っても、応答が出来ないような「頭」である。この隠喩は騒々しい宗教的祭儀の中で、人々が神の声に耳を傾けない文脈のもとで起きている。聖書には「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず、焼き尽くす供え物も求めず。」(詩編40編7節)とある。人々はいったいどうしてこのような供え物のことを知り、またそれをささげる方法を知ったのだろうか? 彼らは出エジプト記やレビ記の記述を「読んでいて」それを知ったのであり、そこに記されていた前例に従ったのだ。それによって彼らは宗教的な方法を知ったのである。彼らは律法で書かれていることを目で見て、それを様々な儀式に形成して行った。彼らは聖書の言葉を正確に読み取り、正確な儀式を行ったのである。それにも関わらず、いったいどうして「神が求めておられない」というメッセージを見過ごすようなことが起きたのだろうか? 律法の内容には、清い動物とか石の祭壇とか聖別された火に関する指示に従うこと以上の何かが含まれていたのだと考えねばならない。それは「神が語りかけるのであり、神の語りかけには聞かねばならない」ということである。しかし、神が語りかけたとしても、それを聞き取る人間が聞く耳を持たなければどうなるだろうか? 神はツルハシやシャベルを手に取り岩のような頭を掘り抜き、人間の内なる深みを貫き、その精神と魂までその言葉を示そうとされる。あるいはまた、色々な不純物が湧き出したために埋もれてしまった井戸のようなものを想像した方が分かりやすいかも知れない。文化的な雑音、さりげない噂話、つまらないお喋り……。わたしたちの耳はそういったもので塞がれていて、神が語ることを聞き取ることが出来ない。神は、ちょうどペリシテ人に井戸を埋められてしまったイサクが、その井戸を再び掘り返したようにゴミと化したオーディオで塞がれているわたしたちの耳を再び掘り返してくださるのである。

宗教的で敬虔な このたたずまいとふるまい
あなたが求めるものはそのようなことではない。
わたしがあなたに聞くことができるように
わたしの耳を開いてください。
―― 詩編40編6節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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