3月13日「自分の声は対話の中で」

どこでも、いつでも、祈りは応答のスピーチである。祈りとは、わたしたちが決して話しかけるスピーチではない。祈りをそう考えることは不遜(ふそん)である。聖書にとってヘブル語の「ミクラmiqra」という言葉の正確な意味は「呼びかける」である。 ―― 神がわたしたちに呼びかけることを意味する。「神が人間とならなければならない」とは「わたしたちが神に応答するために、神がわたしたちを人間にしなければいけない」からだ。わたしたちは、神がどのように世界を支配しているかについて、時には怒りをもって神に異議を唱え、時には感謝と信頼をもって神の前に遜(へりくだ)るように応答することで自分自身となるのである。祈りとはわたしたちに語られた全てに応答するための言葉であり、わたしたちの中にある全てのことを話す可能性を秘めた言葉である。祈りとは言葉を成熟させることであり、わたしたちに包括的な話しをしてくださった方に応答するに最適な言語である。祈りとは特別な機会のために限定された言語の手段ではない。そうではなく、祈りとはあるゆる場所の全ての人々を含む公同の言葉である。この対話は大胆でかつ敬虔(けいけん)なもである。 ―― すなわち、全てで劣っている者が、全てで完全な方に応答するのである。この方法で、わたしたちは人間となる。信仰生活の全てが対話なのである。詩編を用いることで、わたしたちは対話の中に自分の声を発見する。祈りを通して、わたしたちはただ単に自分の感情を語るだけでなく、わたしたちの応答を語るのである。わたしたちは応答ができ、わたしたちは応答することも許されている。もし、わたしたちが本当に神に応答するならば、わたしたちが神に言ってはならないことは何もない。

わたしは神に何を与えることが出来るだろうか?
とういうのも、神はわたしに祝福を注ぎだしてくださったのだから。
わたしは救いの杯を高らかにあげる
―― 神に乾杯!
わたしは神の御名で祈る。
わたしは為すと神に約束したことを成就する。
わたしは神の民と共に行う。
―― 詩編116編12~14節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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