3月6日「裏切られた期待」

「期待が裏切られた」といって、教会への大きな怒りを覚える ―― そんなことがある。教会への失望のほとんどは、教会への期待が裏切られたことに起因する。「この世の力に勇敢に立ち向かい、それを包囲し攻撃する、訓練された献身的な人々で編成された軍隊」をわたしたちは期待している。しかし、実際のところ、芝生に生えている雑草をどうして取り除こうかと一生懸命に話している人々が教会にいる。あるいは「愛や慈悲など徳において成熟した聖人の共同体」を教会に期待するが、実際のところ、食卓のキャセロールの数以上に、陰口やゴシップの数の方が多い教会の夕食会の中で働いている人を目にする。あるいは、聖書の偉大な真理とリズムによって形作られた考えの人に出会えることを期待するが、実際のところ、新聞の漫画欄から始まり、なんとかスポーツの記事ぐらいまで読める人を目にする。そのような時には「教会」を変えようとしても上手く行かない。むしろ、わたしたちの側の「期待」を変えること、あるいはその「期待」を吟味することが、とても重要なのである。というのも、教会とは「わたしたちが作るもの」ではなく、「神が与えてくれるもの」である。教会とは「わたしたちが一緒にいたい人々」ではなく、「神が一緒にいるように、わたしたちに与えてくださった人々」である。教会とは「聖霊が降って創造してくださる共同体」である。その教会で、わたしたちは聖霊による肯定・変革・動機付けに自分を委ねる。教会の理想化はすべきではない。

もし、わたしだけを見てしまうと、本当の輝きを見損ねてしまうかもしれない。わたしたちは実に「日常的生活」という質素な土の器の中で、この高価なメッセージを持ち歩いている。神の比類なき力とわたしたち自身とを、誰も混同することがないためだ。実際には今のままでも、そうした混同が起こる可能性はほとんどあり得ない。わたしたちが余り見栄えのしない存在であることは、あなたがたも知っているのだから。
―― コリントの信徒への手紙(二)4章7節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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