1月11日「転覆活動」

イエスは転覆活動の名士である。最後の最後まで、弟子たちを含めて、全ての人々はイエスをラビと呼んだ。ラビたちは重要人物たちだったが、彼らは何も行動を起こすことはしなかった。イエスにテーマ以上のことが起こる可能性の疑念がある場合には、イエスはそれを誰にも話さないようにさせた ― 「誰にも話すな」と。

イエスの好む話の手法は譬(たと)え話で、それは転覆することである。譬え話は全くありふれたように聞こえる。土地や種についての普段の物語だ。食事やお金や羊、追い剥ぎや犠牲者たち、農夫や商人たちなどだ。それらは全て世俗に関するものだ。福音書に書かれている40程の譬え話はみなそうだ。その中で一つだけが教会に関していて、二つが神の名を言及する。人々はイエスのこれらの譬え話を聞いた時、彼らは譬え話が神について話していないことが直ぐ分かった。そのため、彼ら自身の主権が脅かされることは何一つなかった。譬え話は彼らが自己防衛することを緩和させた。彼らは譬え話が如何いう意味なのかを気にかけながら、戸惑いながら立ち去った。譬え話は彼らの想像力に留まった。それから時限爆弾のように譬え話は無防備な心の中で爆発する。深淵が彼らのまさに足元で開く。イエスは神について語っていたのだ。彼らは侵攻されていたのだ。

イエスは普段の物語と並行して異常な物語を投げかけてきたのだ(パラ=並行して、ボレ=投げられる)。イエスは何の弁明もなく、回心の招きもなく立ち去ったのだ。譬え話を聞いた人々は次のような関係を見始める。神との関係、命との関係、永遠との関係などである。自明でないことや類似点がないことが、次の類似点を識別する刺激となる。つまり、神との類似点、命の類似点、永遠の類似点などだ。だが、譬え話はその効果を果たさなかった。― 譬え話は聞いた人の想像力が働くようにしたのだ。譬え話とは物ごとを簡単にする例話ではない。譬え話は、わたしたちが創造力を働かせることで、物ごとを難しくさせる。だがもし、わたしたちがそれに気をつけないと、信仰の実践が必要となるだろう。

弟子たちはイエスに近寄ってきて尋ねた。「なぜあなたはたとえで話をなさるのですか?」そこで、イエスは答えた。「あなたがたは神の御国を洞察する力が与えられている。それがどう働くかをも知っている。誰もがそのような賜物や洞察力を持っているわけではない。彼らにはそれらが許されていない。心の準備が出来ていれば、洞察力と理解力が自由に発揮される。しかし、準備が出来ていなければ、それを受け容れる感受性の痕跡が直ぐに消えてしまう。わたしが譬えで話すのはそのためである。わたしがそのように話すのは人々の準備を整えさせ、受容的な洞察力へと導くためである。」
― マタイによる福音書13章10~13節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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