わたしの娘カレンが幼いとき、わたしはしばしば娘を老人ホームに連れて行った。カレンは、一冊の聖書以上の存在だった。カレンが老人ホームに入ると、彼女の笑顔や質問が高齢者を明るくさせた。高齢の入居者はカレンに触れ、髪を撫(な)でたりした。そんな訪問のある日に、重度の認知症のヘア婦人がいた。彼女は話好きで、あらゆる話をカレンに投げかけた。彼女はカレンと出会ったことが契機となったのか、自分の幼少期の逸話を話した。その話を終えると、すぐに一言一言を、何度も何度も繰り返すのだった。わたしは、20分かそれ程経った後、カレンが気まずくなり、混乱しないようにと心配した。わたしはその話を中断させ、聖油を塗り、祈った。家に車で戻る時、わたしはカレンが忍耐強く聞いてくれたことを誉めた。カレンはヘア夫人の幾度も繰り返す話を何の苛々(いらいら)することなく、退屈もせずに聞いていた。わたしがカレンにヘア夫人の脳の働きとわたしたちの脳とは違うと言った時、カレンの言葉は「お父さん、知っているよ。ヘアさんは何かを話なのかを話しているのだよ」だった。
9歳のカレンが、ヘアさんはコミュニケーションのために話をしているのではなく、親しくなりたいために話すという違いを知っていたのだ。その違いとは、わたしたちの文化全体が全く注意しないことである。また、牧師たちが留意しなければならないことでもある。わたしたちが行う主要な仕事、つまり牧師の主要な仕事とは、コミュニケーションではなく、親しく交わることである。
言葉は人を殺し、言葉は命を与える。
言葉は毒か、あるいは果実でもある。
それを選ぶのは、あなただ。 ― 箴言18章21節