【断片から見た世界】『告白』を読む 「教えを受けること」の意味

シンプリキアヌスを訪ねる

絶望のただ中で探求を続けるアウグスティヌスは、シンプリキアヌスという人物のもとを訪ねる決心をします。

「わたしはもはや、それよりも確実な認識を得ようとはせず、ただあなたのうちにもっとしっかりした認識を得ることを望むのみであった。しかしわたしのこの世の生活については、すべてが不確実であって、心を『古いパン種』からきよめねばならなかった。わたしは、救いにいたる道を示される救い主そのものを喜んだが、まだその狭い道を行く気にはなれなかった。それで、あなたはわたしの心のうちに、シンプリキアヌスを訪れようという気持を起こさせた。それはわたしの目にも、善であるように見えた……。」

このシンプリキアヌス訪問の出来事は彼が「信じる人間」へと変えられてゆく上で、非常に大きな役割を果たすことになります。今回の記事では、この出来事が持つ意義について考えてみることにしたいと思います。

「どこかに、〈真理〉を知っている人間がいるのではないか?」:訪問の理由

シンプリキアヌスは、当時のアウグスティヌスが世話になっていた司教アンブロシウスにとって、師にあたる人物でした。アウグスティヌスは『告白』第八巻第二章において、次のように言っています。

『告白』第八巻第二章:
「それで、わたしはシンプリキアヌスを訪れたのであるが、かれは当時司教であったが、アンブロシウスがあなたの洗礼の恵みをうけたとき父の役をつとめ、アンブロシウスもほんとうに自分の父親のように敬愛していた。わたしはこのシンプリキアヌスにわたしの迷誤と彷徨の次第を語った……。」

当時のアウグスティヌスをめぐる状況を、二点に分けて整理してみます。

① すでに見たように、「絶望」のただ中にあったアウグスティヌスは友人たちとの「共同存在」から切り離され、「単独者」として苦しみ続けていました。アリピウスやネブリディウスといった親友たちとの対話は以前と同じく続けられていたし、彼らと言葉を交わすことは少なからず慰めにもなっていたものと思われますが、問題の本質的な解決にはなっていませんでした。それというのも、アウグスティヌス自身が苦しんでいた「絶望」の、その「生き続けてゆくことの不可能性」の問題の中核に突き当たる言葉を語ることのできる人間は彼の周囲には存在していなかったからで、彼はあらゆる絶望者が苦しむことになる、「〈他者〉の不在」の問題に直面していたといえます(絶望する人間は、物理的な条件とは必ずしも関わりのないところで、一種の「無人の世界」を生きることになる)。

② アウグスティヌスがシンプリキアヌスのもとを訪れたのは、こうした状況からの出口を求めてのことであったといえます。「絶望」のただ中にある人間には、「どこかに〈真理〉を知っている人間がいるのではないか?」という問いかけが極めてリアルかつ切実なものとして迫ってきます。そして、彼あるいは彼女にとっては、この問いかけは抽象的なものであるというよりも、これ以上ないという位に具体的なものになってくると言えるのではないか。というのも、仮に「〈真理〉=絶望からの出口」を知っている人間が世界には全く存在しないとなれば、絶望する人間にとっては、「自殺」という可能性すらも場合によっては選択肢に浮かんできかねないからです。当時のアウグスティヌスはかくして、かつては自分自身と同じように哲学することに打ち込み、その後に「神の愛」の存在を信じて生きるようになったシンプリキアヌスから「生きることの無意味」の問題に対する手がかりを得ることを求めて、彼のもとを訪ねていったものと思われます。

「教師とは、『実存の真理』そのものを伝えることのできる人のことである」

『存在と時間』第44節bにおける、ハイデガーの言葉:
「現存在は、理解するものとして、じぶんを『世界』と他者たちのほうから理解することもできれば、じぶんのもっとも固有な存在可能から理解することもできる。後者の可能性が意味しているのは、現存在はもっとも固有な存在可能において、またもっとも固有な存在可能としてじぶんを自身に開示するということにほかならない。[…]もっとも根源的で、しかももっとも本来的な開示性とは実存の真理なのである……。」

回心前後の時期のアウグスティヌスの心を占めていたのは、「人間の真の幸福はどこにあるのか?」という問いに他なりませんでした。探求する人間はその生涯を通してさまざまなものを求め、求めてはいかに生きるべきかと迷い続けるけれども、真に求めるべきものとは一体、何であるのか。哲学とは結局のところ、この「幸福の本当のありか」をこそ探し求める営みなのではないだろうか。

このような問いが彼の関心において中核を占めるようになっていったこと自体がおそらく、彼の「絶望」が次第に無視できないものとなっていたことを象徴しています。アウグスティヌスはもともと、女性との愛や名誉に強く惹かれるところのある人でした。その彼が、新プラトン主義の哲学や、キリスト教信仰の道に後戻りすることのできない仕方でコミットしていったということは、「生きることには一体何の意味があるのか?」という疑問が、真理の探求が進むのと共に危機的な深刻さを増していったからに他ならないのではないだろうか。哲学する人間は、時期はそれぞれ異なるにせよ、どこかで必然的に「絶望」の問題に向き合うことになるのではないか。アウグスティヌスにとっては、その時期こそがまさしく30代前半のこの頃であったと言うことができるのかもしれません。

シンプリキアヌス訪問の出来事に立ち戻るならば、この出来事は、真の教師とは「実存の真理」そのものを他者に伝達することのできる人間に他ならないという事実を改めて示唆するものであると言えるのではないか。

人間の実存とはおそらく、「生きることの学び」をめぐる、終わることのない鍛錬の過程に他なりませんが、この過程は誰もが知っているように、限りなく多くの困難や苦しみをその内に含んでいます。そして、それらのものの内の最たるものこそ、「死に至る病」であるところの絶望なのであると言うこともできそうですが、真に「教師」と呼ばれるべき人々とは究極的には、これらの困難や苦境のただ中で、生きることそのものを教える人々に他ならないと言えるのではないか。「実存の真理」は、それぞれの人間が「単独者」として自らに固有な実存を通して学びとってゆくほかないとしても、人間には、その「実存の真理」を他者たちと互いに伝え合い、分かち合うことができる。絶望する人間にとって残された最後の可能性とは、この「実存の真理」そのものを、「存在の超絶」であるところの〈他者〉から学びとるという可能性に他ならないのではないか。「教えを受けること」という実践はかくして、「〈他者〉の超絶」のモメントから決して切り離すことのできないものであるように思われるのである。この意味からすると、二千年以上にわたって続けられてきた哲学の営みの歴史もまた、「生きることの学び」そのものの伝達と継承の記録に他ならないと言うこともできるのかもしれません。

おわりに

回心直後の時期のアウグスティヌスが友人たちとの討論を元にして書いた論考の一つはまさしく、『幸福な生活』と題されていました。私たちが追っている「回心=実存の本来的生起」の問題もまた、この「幸福」なるものと深いところで連関を有するものであることは間違いなさそうです。私たちとしては引き続き、『告白』の言葉に耳を傾けつつ、先に進んでみることにしたいと思います。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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