【哲学名言】断片から見た世界 「愛の思想家」アウグスティヌス

アウグスティヌスの「青春の日々」:彼の19歳から28歳までの生活は、どのようなものであったか

青春と呼ばれる時期は毎日が驚くほど色鮮やかに、けれども、あっという間に過ぎ去ってゆきます。私たちが読み進めている『告白』の著者であるアウグスティヌスの場合は、どうだったのでしょうか。

「こうしてこの九年間、わたしの十九歳から二十八歳まで、わたしたちはさまざまな欲望に、みずから迷わされ、人を迷わし、みずから欺かれ、人を欺いた。そしておおやけには自由学科とよばれる学問を鼻にかけ、ひそかには宗教の名をかたって、一方ではうぬぼれが強く、他方では迷信が深く、いずれにおいても空虚であった……。」

信仰を得てからの観点から振り返った時の20代の日々はアウグスティヌスにとって、「思い出すだに恥ずかしい、あの日々」に他ならなかったわけですが、彼の青春の意義ははたして、そのことに尽きているのでしょうか。今回の記事では、まずは彼のこの時期の生活の様子を瞥見したのちに、もう少し掘り下げて考えてみることにします。

「みずから迷わされ、人を迷わし、みずから欺かれ、人を欺いた」:アウグスティヌスの20代の生活の内実とは

20歳の頃から、アウグスティヌスは故郷のタガステに戻って、地元で弁論術を教えるようになっていました。これは、歴史に残る哲学者たちのたどる進路としては、ある意味ではお決まりのコースともいえます。つまり、簡単に言うならば、「世界の中心に出ていって成功することには興味がなくもないのだけれど、哲学の勉強もゆっくりしたいし、僕はいずれ必ずビッグな人間になるから、とりあえずは無名を貫くのだ」というわけです。どこからそういった自信が出てくるのかは不明ですが、『告白』の叙述から推し量る限り、若きアウグスティヌスはそのような方向で自分自身の道を選択したものと思われます。

上に引用した文章からも分かる通り、アウグスティヌスの人生の選択は、少なくとも30代になるまでは「ただ純粋に知恵を求め続ける」といったものでは全くありませんでした。勉強熱心な人ではあったので、しばしば「僕にはやはり、哲学しかない!」と心を燃やすこともなくはなかったもののようですが、その一方では、演劇に夢中になり、詩作の競争に勝とうとやっきになり、マニ教の布教にも精を出し、後はただひたすらに、不純異性交遊への渇望で燃え立っているという生活だったようです。後から振り返るなら、20代の日々はそうした、「みずから迷わされ、人を迷わし、みずから欺かれ、人を欺いた」、虚しい毎日の連続にほかなりませんでした。

ただし、この頃からは後のアウグスティヌスの生涯にもずっと見られることになる、ある一貫した生き方がはっきりと見られるようにもなってゆきます。それはすなわち、彼は自分と近しい関係のうちにある人々との間の友情を、他の何物にもまして大切にしていた、ということです。

アウグスティヌスは彼の生涯の全体にわたって、何を大切にしつづけたか

アウグスティヌスのこの時期の友人の中には、後々まで人生の道を共にすることになる人もいました(朋友ネブリディウス、後年にはアウグスティヌスに引き続いて、キリスト教に回心)。また、この点については次回の記事で詳しく見ることにしたいと思いますが、この時期の彼には、ほとんど「もう一人の自分」とも言えるような、無二の親友もいたようです。タガステは、当時の他の大都市に比べるならば大きな町ではありませんでしたが、それでも彼らは彼らにしかできないような仕方で、心躍る友情の日々を過ごしていたものと思われます。

すでに述べたように、回心の出来事を経験した後のアウグスティヌスの目から見るならば、20代の日々は決して「善なるもの」とは呼べないようなものを多量に含んでいました。そのことを踏まえた上でも私たちはなお、その後の彼の人生に繋がってゆくものを、これらの日々のうちに見て取ることもできるのではないか。

「わたしの重みはわたしの愛であり、それによってわたしたちはどこへでも運ばれてゆく」。この言葉は、回心した後のアウグスティヌスのものとしてよく知られており、『告白』のうちで語られているものです。アウグスティヌスという人物は「愛の思想家」として知られ、その後半生の生き方は、後の千年以上にわたってこの上ない模範とされ続けてきました。現代においても、彼の生涯と思想から何事かを学ぼうとする人は後を絶ちません。

そのアウグスティヌスが、さまざまな著書から手紙のそこかしこに至るまで、あらゆる所で語り続けたメッセージがあります。それこそが、「愛を大切にしましょう。私たちの隣人の一人一人との関係を、何よりも心を込めて気づかいましょう」というメッセージに他なりませんでした。アウグスティヌスが辿った人生の道のりは、「成功も夢見るし、遊びにも夢中になるけれど、最後の最後では、親しい人と仲良くしていることで『僕の人生は、結局これでいいんじゃないか』と納得できてしまう」といったものでした。彼が自らの「罪」の問題に真剣に向き合うことを余儀なくされ、壮絶な苦しみをくぐり抜けて「本来的なおのれ自身」へと生まれ変わることのできた時にこそ、それまで彼が大切にしてきたものが、真に活かされるようになってゆくはずです。

おわりに

「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」人間性というのはおそらく、一朝一夕で形づくられるようなものではないのであって、この領域にあっては、長い時間をかけて静かに心を用い続けてきたものが、そのままその人自身の「内なる宝」となります。青年アウグスティヌスはこれから一体、どのような出来事に心を動かされて、何を選びとってゆくのでしょうか。私たちとしては、『告白』の物語をさらに読み進めてゆくことにしたいと思います。

[『告白』を読み進めてゆく試みも四ヶ月目に入りましたが、記事をさまざまな方に分かち合っていただいていることを、とてもありがたく感じています。Twitter上でもコメントをいただいたり、少し前のことになってしまいますが、コラムを読んでくださっている方からクリスチャンプレス紙のために寄付をいただくことがあったりなど(その節は、本当にありがとうございました)、日々励まされています。『告白』の物語もアウグスティヌスの20代の日々に入りましたが、32歳の時の回心の出来事を目指して、毎回の記事の写真を選んでくださっている編集部のKさんと共に、さらに進んでゆくことにしたいと思います。気の向いた回だけでもお付き合いいただけるなら、これ以上の喜びはありません。]

philo1985

philo1985

東京大学博士課程で学んだのち、キリスト者として哲学に取り組んでいる。現在は、Xを通して活動を行っている。

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