【哲学名言】断片から見た世界 アウグスティヌスは「運命の問い」を問う

「もしもあの時、ああなっていなかったとしたら……。」:アウグスティヌスは自らの少年時代を通して、運命の問いを問う

私たちの人生においては、「あの時ああなっていなかったら、どうだったのだろうか?」と自分自身に問いかけずにはいられないような出来事も起こるようです。今回の『告白』読解では、まだ少年だった時期のアウグスティヌスが経験したエピソードを通して、このことについて改めて考えてみることにしたいと思います。

「わたしは、まだ少年であったが、わたしたちの高慢をしのんでへりくだられたわたしたちの神によって、わたしたちに約束された永遠の生命のことは聞いていた。[…]主よ、あなたのごらんになったとおり、或る日にわかに胃の激痛におそわれほとんど死ぬばかりであった……。」

今すぐにでも死んでしまうかと思われるほどの痛みに襲われた遠い日のことを思い返している壮年のアウグスティヌスは一体、何を思ったのでしょうか。この出来事は彼にとって、単なる肉体の苦しみの範囲を超えて、どのような運命の不可思議に思いを馳せさせるものであったのか、これから見てゆくことにします。

先延ばしされた洗礼:後年のアウグスティヌスにとって、この出来事は「真理そのものへの立ち返り」の先延ばしを意味した

まずは、出来事そのものについて見ておくことにします。突然の体調不良に襲われた少年時代のアウグスティヌスが願ったこと、それは、自分自身の命が危うくなる前に、イエス・キリストの名において洗礼を受けておくことにほかなりませんでした。

「洗礼」とは信じる人にとって、罪のうちにあったこれまでの古い自分自身を脱ぎ捨てて、新しい命に生まれ直すことを意味します。アウグスティヌスの父は信仰を持ってはいませんでしたが、後年の彼の人生に多大な影響を及ぼすことになる母モニカは、熱烈なキリスト者でした。そのこともあって、まだ幼さが抜け切っていない時期にあったアウグスティヌス少年は、死ぬ前に何としても洗礼だけは受けておかなければということで、この典礼にあずかろうとしたのです。

ところが、この決意はすんでのところで、実行には移されないままに終わることになりました。アウグスティヌスの体調が回復したので、洗礼は「また今度」ということになり、先延ばしされたのです。後に起こることを先取りして言うなら、この「また今度」の機会はこれより数十年のち、彼が33歳の時になってようやく訪れることになります。胃痛をめぐるこのエピソードは、一見すると何ということのない出来事のようにも見えますが、『告白』においてこの時期のことを回想している後年のアウグスティヌスにとって、このことは、他の誰でもない一人の人間としての自分自身に対して与えられた運命の巡り合わせについて、改めて感慨深い思いを抱かせるに十分なものでした。

「もしもわたしがあの時、真理の道に立ち返っていたのだとしたら……。」:実際に、彼のもとにやって来たものとは

『告白』の物語を語るアウグスティヌスがこの出来事を通して自らに問いかけた問いとは、「もしもあの時わたしが洗礼を受けていたとしたら、わたしの人生は、実際の成り行きよりも罪が少なくて済んでいたのではないか?」という問いにほかなりませんでした。

後に詳しく見るように、アウグスティヌスの過ごした青年時代は他の多くの人にとってと同じく、大いに道を踏み迷う「魂の彷徨」の時期以外の何物でもありませんでした。青年時代には、人間は多くのものを憎み、自らをして誰よりも賢いとうぬぼれ、さまざまな快楽に溺れ、歩もうと思っていたはずの道を踏み外します。アウグスティヌスにとっては、青年時代とは消え入るような恥ずかしさと共にしか思い出すことのできない、紛うかたなき「暗闇の時代」にほかならなかったのです。

しかし、どうだったのでしょうか。現代を生きている私たちの目から見るならば、この時に少年だったアウグスティヌスがもしも洗礼を受けていたのなら、その後の有名な「取って読め」の経験(この経験にまで辿り着くことが、私たちの読解の当面の目標です)もなかったでしょうし、『告白』も書かれていなかったでしょう。アウグスティヌスの言うところの「罪にまみれていた青年時代」は、彼本人にとっては苦い過去でしたが、後世を生きた人々が『告白』における回想から、多くを学んできたことも事実です。

アウグスティヌスは先に引用した箇所に続いて、「幼い時期に真理の道に立ち返っていたならば、どんなに良かったことか」と当時を振り返っています。実際に彼のもとを訪れるのは、後の彼の目から見るならば暗闇そのものでしかありえないところの、押しとどめがたい「誘惑の波」にほかなりません。わたしはかつては光に近づいたこともあったが、後には決定的な仕方で闇に飲み込まれることになるだろう。西洋文学の流れを決定づけた本であるところの『告白』が紛れもない「真実の書」であることが、ここからも分かります。アウグスティヌスが語る物語は他の誰でもない、私たち一人一人の青年時代が抱えている真実の、ある側面に触れているのです。

おわりに

「罪が増した所には、恵みもまた満ちあふれた」と、信仰の書は語っています。「もしも、あの時にわたしがしかるべき道に立ち返っていたのだったら、わたしは暗闇のうちでのあの絶望を経験せずに済んでいたのだろうか。」私たちがそのように自らに問うとしても、人間がこの世で生きている間にはおそらく、その答えが与えられることはないでしょう。人間になしうるのはただ、人生のその時その時に与えられている光の方に向かって歩むよう、自分自身を導こうと努め続けることだけなのかもしれません。アウグスティヌスが、彼にとっての「真実の光そのもの」に出会うその地点を目指して、『告白』の読解を一歩一歩進めてゆくことにしたいと思います。

[前回の記事は「罪」の問題に扱ったものでしたが、Twitterを通していくつかのコメントや反応をいただくことができました。実存的に見て軽くはない主題を扱っているにも関わらず読解に付き合ってくださる方が少なからずいることは、感謝というほかありません。課題は多いですが、現代の人間が、自分自身の生き方について振り返る一つのきっかけとなれるようなコラムを目指して、引き続き励んでゆきたいと思います。]

 






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