11月30日「わたしは光として世に来た」

わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。(ヨハネによる福音書12章46節)

神は人を神の言葉に応える人格的な存在として創造した。神はいろいろな方法で人間に語りかける。神はその戒めを人間の良心に語り、イスラエルの預言者を通して語り、この終わりの時には、御子(みこ)によって語りかける。

主イエスは今日の聖句によって、ご自分が世に来た目的を語った。「暗闇」とは人間が神に背を向けて神の戒めに従わず、争い、殺し合っている世界である。「殺してはならない」とは神の戒めである。どうして人を殺してはならないのか。その理由は、人の命はみな神によって造られたものだからである。その命とは、生物的な命にとどまらず、神の戒めに自由意思で応える人格的な命である。それゆえに、主イエスは人の体を殺す者だけでなく、人を悪く言う者も人殺しであると言う。戦争や殺人は言うまでもなく、いじめ、蔑(さげす)み、虐待など、他者を傷つける倫理の乱れは、「殺してはならない」という神の戒めに背く罪であり、この世を暗闇にする元凶である。今も神は御子(みこ)によって人間に語りかけ、人が神に立ち帰るのを待っておられる。いや、神のほうから人の世に来られたのである。それが主イエスである。

主イエスは「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来た」(48節)と言い、人が神に立ち帰る道を開いてくださった。主イエスを信じ、主の言葉に聞き従う者は神との交わりを回復し、神の愛の中に生きる。そして、神の愛に応えて、神の戒めに叶(かな)う生き方を心がける。主イエスを信じる者は、もはや暗闇の中にとどまることはない。

内藤淳一郎

内藤淳一郎

西南学院大学神学部卒業後、日本バプテスト連盟の教会で牧会、鹿児島大学哲学科のカトリックの神学の学びから、鹿児島ラ・サール高校でも教える。日本バプテスト連盟宣教室主事、日本バプテスト連盟常務理事を8年間務める。

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