【鬼滅のイエス】第三夜 砕かれた「猪の子」は置かれた場所で咲いちゃうぜ MARO

前回は国民的ヒーローになって、映画の経済効果から近頃では炎柱ではなく「金柱」とか呼ばれるまでになった煉獄杏寿郎(れんごく・きょうじゅろう)さんの話をしましたが、今回は僕の中で個人的なヒーローとなったあの「猪の子」のお話をしようと思います。よろしくお付き合いくださいませ。今回はそれほどネタバレはしないと思います。まぁどうしてもちょっとはしちゃいますけども・・・そこはごめんなさい。

砕かれた「猪の子」は置かれた場所で咲いちゃうぜ

「なりたい自分」を砕かれた「猪の子」

『鬼滅の刃』を観たことがない方でも、あちこちに貼ってあるポスターや何かで、猪の頭をした子がいるのを見つけて「こいつ何者?」と思う方は多いのではないでしょうか。彼は伊之助というキャラクターで、化け物とか獣人とかではなく、猪の皮をかぶった人間です。しかも猪の皮を脱ぐとすごくイケメンという設定です。

そのルックス通り、彼のモットーは「猪突猛進」。特にテレビシリーズの前半まではそのモットーの通りに突き進みます。自分だけの力で、誰よりも強くなる。誰かにできることが自分にできないなんて許せない。「最強に、俺はなる!」と、そんなセリフはありませんけど、そんな感じのキャラです。すこし現代風に言うならば「なりたい自分に、俺はなる!」です。

そんな彼にテレビシリーズの後半で転機が訪れます。ある戦いで、彼は鬼を倒すことができずに大怪我を負ってしまいます。病院(?)に収容された彼はひどく落ち込み「弱くてごめん・・・」なんて、まったく彼らしくないことまで言い出しました。

しかし、彼は身体の回復と共に、精神的にもそのどん底から抜け出します。抜け出した彼は確かに表面的には以前の「俺様キャラ」のままでしたが、その内面はもうかつてのような「誰かにできることが自分にできないなんて許せない」人物ではなくなっていました。「なりたい自分に、俺はなる!」でもなくなっていました。自分に適した役割を理解し、仲間のサポートでも何でも、自分にできることをやる。そんな人物に彼は変わったんです。そしてテレビシリーズでも映画でも大活躍します。

砕かれることこそ成長の王道

人は誰しも「自分がやりたいことをやりたい」と思うものですし、「やりたいことで人の役に立ちたい」と志を立てたりもするものです。しかし、キリスト教の精神は「僕がやりたいことをやらせてください」ではなく「神様がやらせたいことを、僕にやらせてください」です。そこに本当の「奉仕の心」が生じるんです。その心で物事にあたる時にこそ、神様の力が与えられて、存分に能力を発揮できると、そんな風にキリスト教では考えるんです。ですから「やりたい奉仕をする」のはまだまだ奉仕の極意には至っていないぜ、ということなんです。その辺、けっこう厳しいですキリスト教は。

どうしてそこにキリスト教が厳しいかと言えば、人間には自分の弱さやダメさを知ってこそ、遂げられる成長があるからです。だから聖書には「強さを誇るな、弱さを誇れ」と書いてあるんです。人の弱さにこそ、神様が力を注いで下さる、というのがキリスト教の考え方です。「僕はこんなにすごいです、ありがとうございます神様」と祈るのではなく「僕はこんなに弱いので力を貸してください」と祈るのが正しいキリスト教の祈りです。これを「神の前に砕かれる」と表現したりします。挫折や失敗や反省によって一度粉々に砕かれて、そしてそこから神様に組み上げ直してもらう、これがキリスト教の教える「成長の王道」です。

伊之助はこの意味でとことんまで砕かれました。砕かれるって人間には当然辛いことです。しかもとことんまで砕かれるなんて、なかなかできることじゃありません。「俺はそんなに弱くない!運が悪かっただけだ!」なんて言い訳をして逃げてしまったりするんです。だからこそ、一つの言い訳もせず、とことんまっすぐに砕かれた伊之助をみて僕は「あぁ、こうありたいものだ」と思わされるんです。猪突猛進な伊之助は、砕かれることについても猪突猛進だったんだな、見習わねばなと。

牡丹鍋でも食べたら少しはあやかれるでしょうか。

さて、今日もそろそろ時間となりました。次回はうるさくて情けなくてうざったいアイツのお話をしようかと思います。聖書にも、似た人が出てくるんです。

それではまたいずれ。
MAROでした。

 

オンライン献金.com