【鬼滅のイエス】最終夜 鬼滅のイエス MARO

『鬼滅の刃』からクリスチャンとして思うところをお話ししてみようというこの企画、ついに最終夜となりました。最後はイエス様の鬼退治についてと、そもそも鬼とは何か、についてお話ししようかと思います。今回はほとんどネタバレはないと思います。よろしくお付き合いくださいませ。

鬼滅のイエス

「鬼」とは人の罪の姿

『鬼滅の刃』はその名の通り、鬼退治のお話です。しかし桃太郎と違うところはその退治される鬼が「どこか外からやってきた敵」ではなく、みんなかつては普通の人間だったということです。普通の人間が、鬼の血を注入されて、自分の執着に、より執着するようになって、執着のループの末に鬼と化す。そんな鬼たちと正面から向き合って退治するのが『鬼滅の刃』なんです。ですから退治される鬼にも人間としてのストーリーがあり、観る人にもどこかしら鬼と共感できるところがあって単純な勧善懲悪ストーリーには収まらない、そんなところがこの作品の人気の根幹なのではないかと思います。

夢枕獏さんの小説「陰陽師」にも多くの鬼が登場して、安倍晴明によって退治されますが、そこに出てくる鬼も、みんなもともとは人間です。人間がある者は権力、ある者は恋、ある者は音楽、ある者は食べ物、と、何かに執着しすぎて鬼と化してしまう。安倍晴明の鬼退治も単純な勧善懲悪ではなく、その執着をほぐし、溶かすような仕事として描かれています。

聖書には「鬼」という単語は出てきませんが「悪魔」はでてきます。しかし悪魔と鬼とは別のものです。悪魔は最初から悪魔であって、もともと人間ではなく、人間にとっては純粋に「外部からの敵」です。その悪魔によって我欲を刺激され、罪に浸っていく人間の姿は聖書に多く描かれています。それが『鬼滅』に出てくる「鬼」に近い存在なのではないかと思います。悪魔は人を罪に陥れ「鬼」と変える存在、つまり『鬼滅』で言えば鬼の総大将であり、原作では「最後の敵」となる鬼舞辻無惨(きぶつじ・むざん)のような存在です。

「鬼」にならない方法

罪によって人は堕落し、即ち「鬼」と化し、罪から解放されることで再び人として再生します。それがイエス様による救いということです。「鬼」には滅びが約束されていますが、人には永遠の命が約束されています。ですから人を罪から解放すること、それがイエス様流の鬼退治であり、福音書に描かれるイエス様のストーリーは、いわば『鬼滅のイエス』であるわけです。

『鬼滅』で鬼と化す人はもともと悪い人ばかりではありません。人は悪いことに執着するから鬼になるのではなく、それがなんであれ、この世のものに執着するとき、鬼になってしまうんです。最も端的な例は「正義」です。正義は悪いものではありませんが、人が正義に執着する時、そこに争いが生まれ、そして周囲の人をも巻き込んで鬼としていく。そんな様子をみたことのある方は多いのではないでしょうか。家族を守りたいあまりに人を殺めてしまうとか、お金に執着するあまりに心を失ってしまうとか、そんな例もたくさんあります。でも家族やお金は、それ自体は決して悪いものではありません。しかしそれ自体が悪いものではなくても、人がそれに執着する時に、それが悪いものへと変わってしまう。恋でも芸術でも学問でも、それ自体何も悪くない、むしろ良いものでさえ、執着するところには必ず「罪」が生じる。そこに聖書の説く「罪」の奥深さ、恐ろしさがあります。

ですからイエス様は有名な山上の説教でも、「執着するな」ということを特に強調して教えていますし、聖書の他の箇所でも同じようなことが多々記されています。クリスチャンがよく言う「神に委ねる」ということは、「自分で執着せずに神様に任せる」ということです。例えばお金のことなら「自分でお金のことをあれこれ案ずるとお金に執着してしまうから、お金の心配は神様に任せてしまう」ということですし、正義のことなら「悪いやつを自分で裁こうとすれば自分も悪い奴になってしまうから、裁くのは神様に任せてしまう」ということです。自分にとって大事なもの、ことであればあるほど、それに関する罪を人間は犯してしまいやすいので、大事なら大事なほど、神様に委ねる必要があるということです。そうすれば人は罪から離れられる、すなわち「鬼」にならずに済むと、聖書は教えているんです。

『鬼滅の刃』も『鬼滅のイエス』もハッピーエンド

そして聖書にはイエス様の鬼退治『鬼滅のイエス』は最後には必ず完成して、ハッピーエンドを迎えるという約束が書いてあります。『鬼滅の刃』は先日、原作コミックスの最終巻が発売されてハッピーエンドを迎えましたが、同じように僕たちの生きているこの世もまた、いつか来る最終巻ではハッピーエンドで終わるんです。そしてそのハッピーエンドを信じて、待ち望んでいるのがクリスチャンなんです。ですから今日も今日とて絶賛連載中のこの世界を、楽しみたいと思います。

さて、5回に渡ったこの連載もひとまず終わりです。また何か思いついたら追加したりすることもあるかもしれませんが、ひとまず終わりです。『鬼滅の刃』は映画の公開が終わったら、今度はまたテレビシリーズが始まったりするんですかね。楽しみです。

それでは、お名残惜しゅうはありますが、またいずれ。
MAROでした。

横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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