7月12日は山室機恵子の召天日

 

今日7月12日は山室機恵子(やまむろ・きえこ)の召天日です。日本人初の救世軍士官(牧師)となった山室軍平(ぐんぺい)の最初の妻で(悦子と再婚)、軍平との間に、長女の民子や長男の武甫(ぶほ)など7人の子を授かりました。

岩手県花巻の生家は、宮澤賢治の家の隣にありました。正教会のニコライが機恵子の家に泊まって伝道を行い、その兄弟は正教会の神学校に進んでいます。18歳で上京し、明治女学校(野上弥生子や羽仁もと子、相馬黒光などが学んだキリスト教学校)に入学。在学中、同校で教えていた植村正久から日本基督教会・一番町教会(現在の日本基督教団・富士見町教会)で洗礼を受けます。

卒業後は、明治女学校で発行されていた日本発の本格的な女性誌「女学雑誌」の編集に携わるほか、女学校で教え、東京婦人矯風会で奉仕します。

1895年に英国の救世軍が初来日した際には、婦人士官らに日本の習慣や礼儀作法を教授しようと自ら奉仕を申し出ます。そんな中で軍平と出会った機恵子は、軍平の伝道にかけるひたむきな情熱に心を打たれ、99年に結婚しました。

翌年、救世軍は廃娼運動(遊郭などに売られて公娼をしていた女性を救う働き)に乗り出し、女性を保護するシェルター「東京婦人ホーム」の主任に機恵子はなります。裁縫や読み書き、行儀作法を教えると同時に、聖書を読み聞かせていたといいます。

1905年、自分の故郷でもある東北地方が大凶作になった際は、人買いの手から守るため、百数十人の女の子を引き取ります。さらに結核療養所の設立に向けて取り組んでいましたが、過労で倒れ、41歳で息を引き取りました。

結婚生活は貧しく、自身も健康を害しながらも、ひとことも不平不満を漏らすことがなく、「神のためと世の救いのためになら、私はどんなことでもいたす覚悟でございます」と、人生のすべてを弱い立場の女性や子どもを救うために献げた機恵子は「日本救世軍の母」と呼ばれました。

 






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