神さまが共におられる神秘(3)稲川圭三

十字架のイエスさまから流れ出た「み心」

2015年6月14日 イエスのみ心の祭日
(典礼歴B年に合わせ3年前の説教の再録)
兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。
ヨハネ19:31-37

説 教

今日は年間第11主日ですが、「イエスのみ心」の祭日のミサを行います。

どうして「イエスのみ心」の祭日に、十字架の上で死なれたイエスさまの出来事が読まれるのでしょうか。それは、その出来事が最も深く「イエスのみ心」を表しているからです。

そのことを今日の「アレルヤ唱」がよく教えてくれています。「神は先に私たちを愛し、私たちの罪の赦(ゆる)しのためにひとり子を遣わされた」とあります。

「神さまが先に私たちを愛してくださった」とは、「神さまが先に私たちを愛して、私たち一人ひとりと一緒にいてくださる」ということです。私たちが良いことをしたから一緒にいてくださるのではありません。神さまは私たちを愛して、私たち一人ひとりと一緒にいてくださいます。

次に、「私たちの罪の赦(ゆる)しのために」とあります。「罪」とは、私たちの中に神さまがいてくださるのに、それを認めない、私たちのかたくなな「的外(まとはず)れ」です。

人間の中には神さまがおられます。それなのに、その神さまを見るのではなく、「ああ、あの人はああだからね」「あの人はこうだからね」と言って、目に見える外側のことで蓋(ふた)をしてしまって、その奥にある神さまの真実にたどり着かない的外れを「罪」と言います。

では、罪の「赦し」とは何でしょうか。私たちがその「的外れ」から、言わば「的に当たる」いのちになることです。つまり、あなたの中におられる神さまに目を向けて生きる者になること。それが「罪の赦(ゆる)し」です。

でも、私たちにはその力がありません。人間の中にいてくださる目に見えない神さまを見る前に、目に見える外側のところで止まってしまって、神さまが共にいてくださる真実に出会えません。

その私たちが神さまのいのちに出会えるようになるために、「ひとり子を送ってくださった」。これが今日の福音を聞くための準備です。

イエスさまは罪のない方、的外れのない方です。だから、どんな人の中にも神さまが共にいてくださる真実を見て、出会って生きた方です。神の国をまさに生きてくださったお方です。そのイエスさまのまなざしが端的に表れている出来事があります。

安息日にイエスさまが会堂に入って話しておられると、汚れた霊に取りつかれた人が来て叫んだのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(マルコ1:24)。つまり、「かまうな、お前には関係ない」と叫んだのです。

そうしたらイエスさまはその人にこう言ったんですよ。

「黙れ。この人から出て行け」(25節)

イエスさまは、人間の外側を見る方ではありません。みんなは「ああ、あの人は悪霊に取りつかれている」「あいつは悪霊だ」と外側を見たでしょう。でも、イエスさまは違いました。イエスさまは、「黙れ。この人から出て行け」と言われました。イエスさまにとって「人」とは、その人の中に神さまのいのちがある尊い存在。イエスさまはその「人」を見ました。悪霊ではなく、「人」と関わられたのです。「人」とは、その中に神さまが共におられる尊い存在です。

すると、その人は「自分の本当」を見てもらったから、自由になりました。それまでは、その人のことを回りの人は「悪霊の子」だと思っていました。自分でも「悪霊の子」だと思っていたかもしれません。しかし、イエスさまは「あなたは悪霊の子などではない。あなたは神の子なのだ」と言われたのです。「黙れ。この人から出て行け」とは、そういう意味の言葉でした。それで、その人から悪霊は去ったのです。これがイエスさまのまなざしです。

ところが、そのお方を十字架につけてしまったのです。「人間の中に神さまを見出すいのち」を、人間は殺してしまったのです。

私たちも、「人間の中に神さまを見出すいのち」を殺してしまうのに等しいことがあります。人の外側だけを見て、「なんでそうなの? 何とかならないの?」と言って、人間の中に共にいてくださる神さまを無視してしまうとき、私たちも同じようなことをしています。人間の中に神さまを見出すイエスさまを殺してしまうようなことをしてしまうのですね。

しかし、このイエスさまの死という出来事に、「イエスさまのみ心」が表されているとヨハネの福音書は理解しました。イエスさまは足を折られませんでした。それは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであったとあります(ヨハネ19:36)。これは出エジプト記(12:46)の言葉で、「過越の小羊」についての言葉です。つまりイエスさまは、私たちを罪から解放するための「世の罪を取り除く、神の小羊」だと理解しているということです。イエスさまの死とは、私たちに永遠のいのちを与えるための死、イエスさまの「み心」なのだということです。

また、足は折られませんでしたが、一人の兵士が槍(やり)でイエスさまのわき腹を刺しました。「わき腹を刺した」というのは、本当に死んでいるかどうかを確認するために槍で心臓を刺し貫いたということです。

すると、「血と水が流れ出た」とあります。流れ出た血と水は、私たちを清め、癒やしてくださるイエスさまのいのちでした。「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」(ヨハネ19:37)という言葉は、旧約のゼカリヤ書(12:10)の言葉ですが、それは「その日、・・・罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる」(13:1)というメッセージの箇所です。

「人間の中に神さまのいのちを見出すいのち」を、人間は殺してしまいました。しかし、刺し貫かれたイエスさまから出たのは、「神の怒り」ではありませんでした。人間を洗い清める「神の赦しといのち」が流れ出たのです。それがイエスさまの「み心」です。

私たちは、自分がした良い行いに悪を返されると、何倍もの怒りにして返してしまうかもしれません。でも、イエスさまは違います。イエスさまは良い行いしかなさらなかったのに、人間は悪を返しました。しかし、それに対して「怒り」を返したのではなく、「水と血」、すなわち人間を洗い清めるご自分の「聖霊といのち」を私たちに与えてくださいました。それがイエスさまの「み心」です。

イエスさまのわき腹から流れ出た水「聖霊」と血「聖体」によって、私たち一人ひとりの中にイエスさまご自身が立ち上がり、一緒に生きてくださるいのちとなられたのです。そのことを通して、私たちが永遠のいのちを得るためです。

だから、私たちもイエスさまに倣(なら)いましょう。

もし今日、私たちに「バカ」と言ってくる人がいたら、その人に向かって「神さまがあなたと共におられます」と祈りましょう。これはイエスさまがなさったことです。

もし今日、「フン」と無視してくる人がいたとしたら、その人のために祈りましょう。「神さまがあなたと共におられます」と祈りましょう。それがイエスさまの「み心」だからです。

その時、イエスさまと一緒の向きで生きるいのちになります。それを「永遠のいのち」と言います。永遠のいのちとは、ただ持っているものではなく、「一緒に生きること」です。今日、ご一緒に生きましょう。

稲川 圭三

稲川 圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう) 1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員をする。97年、カトリック司祭に叙階。西千葉教会助任、青梅・あきる野教会主任兼任、八王子教会主任を経て、現在、麻布教会主任司祭。著書に『神さまからの贈りもの』『神様のみこころ』『365日全部が神さまの日』『イエスさまといつもいっしょ』『神父さまおしえて』(サンパウロ)『神さまが共にいてくださる神秘』『神さまのまなざしを生きる』『ただひとつの中心は神さま』(雑賀編集工房)。

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