【毎週日曜連載】神さまが共におられる神秘(101)稲川圭三

開かれたまなざしのお方と共に生きる

2017年4月30日
復活節第三主日
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった
ルカ24:13~35

復活されたイエスが、エルサレムから60スタディオン離れたエマオという村に向かっていた二人の弟子に現れたという出来事です。60スタディオンというのは11~12キロくらいの距離ですから、普通に歩いて3時間、速足で2時間くらいの距離ということになります。

そこにイエスご自身が近づいて、彼らと一緒に歩き始められたが、「二人の目は遮(さえぎ)られていて、イエスだとは分からなかった」とあります(16節)。これが物語の始まりです。

二人の目が「遮られていた」と訳されている言葉ですが、「クラテオー」という単語が使われていて、「捕まえる」、「逮捕する」、「固く保つ」、「保持する」という意味なんですね。きっと、「目に見えるものだけがすべて」という考えに深くとらえられてしまって、人間の中に共にいてくださる神さまの真実に目が閉ざされていたという意味なのだと思います。

エルサレムからエマオへ向かう二人の弟子は、「この一切の出来事について話し合っていた」とあります(14節)。イエスがなさったすべてのこと、教えられたことや行われた奇跡も含め、十字架にかけられて死なれたことや、天使が現れて「イエスは生きておられる」と女たちに告げたところまで含めて、一切の出来事です。

しかし、二人は暗い顔をしていたのです。

イエスは、「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか」と言われ(25~26節)、「聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた」とあります(27節)。その時、後に弟子たちが振り返ったところによると、二人の心は少しずつ燃やされていたのです。

そして、共に泊まるため家に入り、一緒に食事の席に着き、イエスがパンを裂いてお渡しになった時、「二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」と書かれています(31節)。

先ほど「目が閉ざされていた」という言葉について説明しましたが、この「開かれた」という言葉は「ディアノイゴー」という単語です。これは三つの言葉が合わさって一つの単語になっている言葉でした。

「ディア」というのは「分離」を表します。「アナ」というのは「再び」という意味です(「アナスタジア」というのが「復活」で「再び立つ」っていう意味ですね)。そして「オイゴー」というのは「開く」という意味です。つまり、「閉じられていたまぶたが再び開かれる」ということになります。

ここで一つ考えることがあります。初めは開かれていたまぶたが閉じられてしまったのはいつだったのでしょうか。これはおそらく、神さまが人間をおつくりになった当初、神が共におられることに開かれていたまぶたが、誘惑する者である蛇の声を聞くことによって閉ざされてしまった。その時のことを指しているのではないでしょうか。これが今日、イエスだと分かって目が「開かれる」ということの前提としてあるものだと思います。

「メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか」(26節)

イエスは何回も、「ご自分が苦しみを受け、復活して栄光に入る」ということを繰り返し言われていました。

私たちは、人間の中に神が共におられることに対して、いったんまぶたが閉じてしまった者ですが、イエスの目は開いてずっと見ておられました。十字架の上で、自分を十字架にかける者の中にも神のいのちがある真実を見ておられました。すべての人間の中に神が共におられるということを見て、苦しみを通してその真実の中に一致されたのだと思います。

そして、その中で死なれ、その中で復活された。すべての人の中にいてくださる神さまの真実の中で復活された。これが「栄光を受ける」ということの意味なのだと思います。

つまり、イエスさまはただひとり孤高の存在として復活されたのではなく、すべての人間の中に共にいてくださる神さまの真実の中に一致し、苦しみを通して生き、死に、復活してくださったのです。

キリストは今どこにおられますか。復活のキリストはどこにいらっしゃるのですか。それは、すべての人の中に神と共に復活しておられる。これが「キリストの復活」です。すべての人を救ってくださったというのは、このことなのだと思います。

エマオの弟子たちは聖書の言葉によって、ご自分の内に復活のキリストが共に生きてくださっていることに気づき、パンを裂いてくださった時に目が開かれ、開かれたまなざしのキリストと共に、人間の中に神のいのちがあることを見るまなざしになって、その良い知らせを人に告げる者になっていったのだと理解してよいと思います。

稲川 圭三

稲川 圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう) 1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員をする。97年、カトリック司祭に叙階。西千葉教会助任、青梅・あきる野教会主任兼任、八王子教会主任を経て、現在、麻布教会主任司祭。著書に『神さまからの贈りもの』『神様のみこころ』『365日全部が神さまの日』『イエスさまといつもいっしょ』『神父さまおしえて』(サンパウロ)『神さまが共にいてくださる神秘』『神さまのまなざしを生きる』『ただひとつの中心は神さま』(雑賀編集工房)。

この記事もおすすめ