【聖書の不思議あれこれ!】第4回 「罪」ってナニよ? その2 パダワン青木

みなさん、こんにちは! パダワン青木です。

前回は聖書が語る「罪」について、あれこれと謎をちりばめて終わりました。もちろん一定の方向性を持って謎かけをしていますから、今回はそれに対する解答編となるわけですが、その答えに納得できる方もいれば、そうではない方もおられるでしょう。ぜひ皆さんからの意見、感想をお寄せ頂きたいと思います。そういったインタラクティブなやり取りを楽しみたいです。あ、だからといって、炎上目的の単なる誹謗(ひぼう)中傷は困ります。それこそ、「罪」ですよ(笑)

さあ、では「罪」ってナニよ?解答編、いってみよう!

まず私たちが押さえておかなければならないのは、「罪」という言葉に対して、クリスチャンが持っているイメージと、キリスト教のことをあまり知らない方が抱くそれとは、根本的に異なっているということです。例えば、これ何と読みますか?→「罪人」

そりゃ、「つみびと」でしょ?と考えた方、それは違います。一般的にこれは「ざいにん」と読みます。「つみびと」という訓読みは、むしろキリスト教独特の概念であって、これを「ざいにん」と読む一般的な思考にはそぐわないことになります。だから「人間はみんな罪人(つみびと)なんですよ」と語っても、あまりピンとこないんですね。

こういった細かいことを気にするのが日本人です。皆さんの中にも、例えば本や雑誌を買うとき、平積みになっている真ん中からそっと抜き取っていく方はいませんか?この感覚が外国の方にはわかりづらいそうです。本は本、雑誌は雑誌ではないか?と考えるようですね。でも日本人は、端が折れてないか?手あかがついてないか?と、いろいろ気にする。そんな一種病的なまでに他者と自分との違いを意識する民族にキリスト教を伝えようとするなら、「罪人」の読み方にも気を配って、「ざいにん」と読む人に伝わる「罪(つみ)」概念を提示しなければいけないんですね。

まあ、細かい話はここまでにして、そもそも「人は生まれながらにして罪を持っている」ということを「原罪」と約(つづ)めて表現した、罪概念の原点に立ち返りましょう。「原罪」という表現は、聖書に一度も出てきません。この語を生み出した人ははっきりとわかります。その人物とは、アウグスティヌスです。彼は若い時に放蕩(ほうとう)三昧をして、そこから回心し、マニ教の教えを経て、キリスト教徒となります。その回心体験を通して彼が生み出した言葉が「原罪」英語では「Original Sin」と言います。

アウグスティヌスは、これを聖書のアダムから子々孫々に受け継がれる人間の本性とみつけました。つまり、私たちはアダムとエバの罪の性質を、そのDNAの中に埋め込まれているということになります。こういった考え方がその後1700年間も受け継がれてきました。聖書の記述を「そのまま」受け取る保守的な教派であればこそ、自分たちはアダムの子孫であって、それゆえにアダムの呪いが今も受け継がれている、と捉えたのです。

でも人間のDNAの解明がほぼ解明されてしまった現在、この考え方はなかなか受け入れられません。それなら「どこに罪のDNAがあるんだ?」となります。それを取り除けば罪が抹消されるのではないか? こうなるとクリスチャンの常套句「それは霊的な意味です」が飛び出してきます。アウグスティヌスの時代、最も進んだ「科学的思考」であった「アダムDNA説(もちろんこんな表現ではありません)」が、現代ではオカルトや密教的な「霊的」という言葉で括(くく)られようとしているのです。
だから「原罪」という言葉が独り歩きできた時代はもう間もなく終わりを告げます。むしろ「原罪」という言葉で本当に表現したかったリアリティを、しっかりと現代の言葉とやり方で伝えるべきです。だから今回のタイトルにとなっている「「罪」ってナニよ?」となるんですね。

私にとって一番わかりやすい方法は、やはり聖書の出来事(物語)を提示することです。創世記3章の失楽園と言われる物語です。そこで、蛇にそそのかされて果実を食べてしまったアダムが、神様からの問いかけに対して、「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。(創世記3:12)」と答えています。エバも同じく「蛇が…」と。これはいったい何でしょう?そう、責任転嫁です。

考えてみてください。あなたが車でデートしているとします。助手席に乗っている恋人が「もう少し早く走ったら?」と言います。それでは、ということでアクセルを踏みこむあなた。すると背後にパトカーがやってきます。哀れ、スピード違反です。その時、運転していた彼氏(または彼女)が警察の問いかけに対して「こいつがスピード出せって言ったんだよ!」と言い出したとしたら、どうでしょうか?千年の恋も一瞬で冷める(古い表現ですね)ことになるでしょう。これが「罪」の顕れ(あらわれ)です。アダムが、そしてエバが「罪」を抱いてしまった結果行った言動と同じです。ちなみに蛇は言い訳していません。だから私の神学校時代の教授は「人間は蛇以下です!」と語っておられました。ゾッとしますね。

つまり、現代において聖書が語る「罪」とは、「責任転嫁」のことです。そういった思いがあなたの中に生まれたことはありませんか?自分は悪くない。あいつのせいだ。あいつの言動で、私はこうなってしまった・・・等々。いくらでも出てくるとしたら、あなたの中に(その起源や、メカニズムはどうあれ)「罪」が存在していることになるのです。「なるほど」と心の中で思えたら、あなたは「罪人」であることを認識したことになります。

罪とか罪人というものは、決して人から指摘されて納得するものではありません。あなたが実感するものです。人の言いなりになることではなく、自分で自分の状態を認識することによって、「罪」が分かるようになるのです。

こういった捉え方を「共時的解釈」と言います。小難しい表現で申し訳ありませんが、聖書を「そのまま読む」ことで読み手の中に生まれる理解や発想をすくいとる手法です。「ナラティブ(物語る)」とも言います。

今回は少し専門的な言葉が羅列されましたが、言いたいことはこれです。

問い:「罪」ってナニよ?

答え:いろいろ言い方はあるけど、分かりやすい一例を挙げると、「責任転嫁」です。

いかがでしょうか?

パダワン青木

パダワン青木

青木保憲(あおき・やすのり) 1968年愛知県生まれ。 愛知教育大学大学院を卒業後、小学校教員を経て牧師を志し、アンデレ宣教神学院へ進む。その後、京都大学教育学研究科卒(修士)、同志社大学大学院神学研究科卒(神学博士、2011年)。グレース宣教会牧師、同志社大学嘱託講師。東日本大震災の復興を願って来日するナッシュビルのクライストチャーチ・クワイアと交流を深める。映画と教会での説教をこよなく愛する。聖書と「スターウォーズ」が座右の銘。いまだジェダイマスターになることを夢見るパダワン。一男二女の父。著書に『アメリカ福音派の歴史』(2012年、明石書店)。

この記事もおすすめ