不従順な女性たちと「#ChurchToo(チャーチ・トゥ)」運動 福音主義教会における性的虐待

新著”Disobedient Women”(『不従順な女性たち』)は、ビル・ゴサードやジョシュ・ダガー(IBLP=Institute for Basic Life Principles、生活の基本方針研究所、その組織の設立者とその広告塔となった大家族の長)から、その根底にある純潔文化に至るまで、福音主義教会における性的虐待に光を当てている。「レリジョン・ニュース・サービス」が報じた。

少女や女性が、何の疑問も持たず男性に服従することが神の計画だと教えられている場合、男性はその権力をほとんどチェックすることができない。福音派の牧師をはじめとする権力者たちは、しばしばそれを利用し、女性たちを性的・精神的に虐待し、サバイバーが警鐘を鳴らすと彼女たちを非難したりその信憑性を酷評したりしてきた。

サラ・スタンコーブ氏の力強い新著”Disobedient Women: How a Small Group of Faithful Women Exposed Abuse, Brought Down Powerful Pastors, and Ignited an Evangelical Reckoning”は、こうしたサバイバーたちと、彼女たちのために声を上げた擁護者たちの物語である。「#ChurchToo」がハッシュタグになる何年も前から、スタンコーブ氏は『ワシントン・ポスト』誌、『コスモポリタン』誌、『マリ・クレール』誌などの刊行物で性的虐待について調査、執筆していた。下記のインタビューは簡潔明瞭に編集されている。

――どのようにこの取り組みを始めたのですか?

リサーチを始め、キリスト教家父長制を発見したのは、ある物語からでした。何年も前、ある人が私にとても興味深いクラウドファンディングの取り組みを教えてくれました。それは、クイバーフル(Quiverfull=大家族を良しとする神学的立場)の環境にいたヴィッキー・ギャリソン氏で、彼女にはたくさんの子どもがいました。彼女は夫とも教会とも別れ、そのような大家族を養うために必要な資金もなく、2014年のAtheist(無神論者)of the Yearに選ばれようとしていたところでした。Quiverfullという言葉の意味すら知りませんでしたが、それを調べて彼女のブログを読みました。それで扉が開いたのです。

――Quiverfullが何なのか知らない読者のために、その教えと大衆の理解について説明していただけますか?

子宮と子宮が生み出すことができるものを神の祝福として扱う生殖哲学です。つまり、避妊をしたり、夫がパイプカットをしたりすると、神の祝福を妨げていることになります。だから、子どもを産めば産むほど祝福が増えるのです。それは、あなたがその子どもたち全員を養うことができることを多くの点で保証することを伴います。

その根底にあるのは、クリスチャンはできるだけ多く繁殖して、クリスチャン人口を維持し、他の宗教の信者の人口を追い越す必要があるという考えです。また、ヴィッキーのケースでは非常に重要なことですが、殉教という考え方――女性として、世の中にキリスト教徒を生み出す方法は子孫を残すことで、その過程で死ぬとしても、それは殉教者になる一つの方法だという考え方――もあるのです。

――また、あなたは「家にいる娘」という考え方についても話していますね。聞いたことのなかった運動ですが。

それは、家庭の中で、女子たちが父親の権威の下で、母親になるための訓練を受けながら家に留まることを奨励しているのです。その結果、女子たちは、家事や弟妹の育児でとてもたいへんな母親を手伝うようになりました。このような家庭では、大学は行くべき場所ではありません。大学はフェミニズムやマルクス主義を学ぶ場所なのです。

だから、家に留まっている娘を持つことは、若い成人女性が親公認の求婚に踏み切り、若い男性と結婚してその男性の権威の下に移るまで、権威的な状況に置いておくための方法なのです。それは、若い女性たちが自分たちの育った世界観以外の世界観を学ぶことを阻止するための急場しのぎだったのです。しかしそれは、男性の権威という考え方を強化するものでした。

――多くのアメリカ人は、ダガー家を通してこの求愛の考え方を知りました。あなたは本の中でダガー家について少し触れていますね。ダガー家の子どもたちの生い立ちは、ジョシュが妹たちに行った虐待をどのような形で助長したのでしょうか? そしてそれはどのように取り扱われたのでしょうか?

一つは、虐待を知った家族が多くの家族がするようなこと、つまり若い女性たちを困難なプロセスを通して歩ませるために、セラピーの資格を持つ人を探すということをせず、ジョシュ(ダガー)はビル・ゴサードとIBLPが運営するトレーニングセンターに送られたことです。そこはゴサードのミニストリーで、素行不良や権威に逆らう若者を多く受け入れていました。しかし、ここでは性的暴行の話をしているのです。つまり犯罪の話をしているのです。しかし、性的暴行は犯罪として扱われませんでした。

しかしダガー家は、ビル・ゴサードのミニストリー、この生き方全体の支援の広告塔となりました。ドキュメンタリー映画『ピカピカの幸せな人々』で見たように、ピカピカの人々にはいくつかの欠点があり、リアリティ番組で映し出されるような楽しいことばかりではありませんでした。ダガー家だけでなく、あまり知られていない他の家族も含め、こうした家族の多くは、宗教的なサブカルチャーの中で一定の信用を保たなければならず、それは人生の醜い面を見せないように最善を尽くすことを意味していました。ネガティブな面を見せたら、聖職内での地位を失ってしまうからです。ダガー家が強いられるまで公に出なかったので、虐待について名乗り出なかったのも、おそらくそのせいだと思います。

――あなたの本は、このサブカルチャーをただ批評するのではなく、深く理解しようとする素晴らしい仕事をしています。男女の役割が明確に定義され、かなり閉鎖的なこのライフスタイルのどこに女性は魅力を感じるのでしょうか?そこに留まる女性たちにとってそのライフスタイルには何があるのでしょうか?

素晴らしい質問です。多くの家庭が家庭教育を通してこの世界観に入ります。宗教的な理由で家庭教育を始めることもありますが、単に自分たちで子どもに教えたいだけかもしれません。ある会議に行って、子どもたちが神様にふさわしくありたいのであれば、それがどういう意味であれ、家庭で子どもを育てるのが一番だと学ぶのです。このような考えをカリキュラムに盛り込む教材はたくさんあります。非常に多くの犠牲が必要だが、彼らは神の目から見て良いことであることを望んでいるので、喜んでそうしているのです。

また、特定の家庭内における男女間のパワー・ダイナミクスは、紙面上で考えているほど明確なものではなかったと、何人かの情報源から聞いたこともあります。時には、キリスト教的家父長制を推し進めているのは女性であり、母親がその考えを家に持ち帰り、父親をほとんどその型に強制している場合もあります。そのような男性は、もともとそのような絶対的な権威を望んでいないのかもしれません。「私が信頼している牧師がこうしろと言うのだから、そうしなければならない」と感じると、極端になることが多いです。まるで、自分にはない性格的特徴を身につけようとしているかのようです。従順であろうとしながらも、家族にその役割を押し付けようとする女性がいたり、ある種のクリスチャン・リーダーであることを「義務」と感じている男性がいたりします。その結果、人々は自分ではないものになろうとして混乱しているのです。

――このような虐待のケースの多くは、1970年代から2000年代初頭にかけての「純潔文化」の台頭の中に位置しています。純潔文化は福音主義における虐待の一因となったのでしょうか?

 純潔文化は間違いなく一つの役割を果たしていると思います。女子にも男子にも、どんな性的接触も、たとえ正面からのハグさえも避け、極端な場合には結婚するまでキスを避けるようにという圧力があります。しかし、罪から身を守るためだけでなく、男性や少年に性的なことを考えさせないようにする責任は、主に女性や少女にあります。

彼女たちの多くはセックスについて何も知らされていません。彼女たちは何が正常なことなのか、何が健全なことなのか、同意とは何なのかを知らないのです。それがまったく説明されていないのです。そしていざ虐待が起こると、自分の責任だと感じて罪悪感にさいなまれます。

そのような罪悪感を抱いた後では、「私にこういうことが起こりました」と名乗り出ることは通常ありません。たとえ教会内で名乗り出たとしても、牧師たちに責められることが多いのです。私が考えているのは、青年牧師に暴行されたジュールズ・ウッドソンさんのような人のことなのです。その牧師はまた、彼女の出ていた『真実の愛は待ってくれる』のクラスを教えていた人物でもありました。だから、牧師が彼女を2人きりにして性行為を求めた時、彼女は牧師が自分と結婚したいのだと思ったのです。それが彼女の持った唯一の文脈でした。翌日、彼女は教会に報告し、「あなたはしたのですか?」と尋ねられました。明らかに責任は彼女に降りかかってしまっていたのです。結局、彼は別の教会に送られました。彼らは彼のために素晴らしい別れのレセプションを開きました。ジュールズさんが受けた仕打ちはあまりに酷いもので、彼女はほとんど「壊れて」しまいました。まだまだたくさんの物語があります。

――その中には、ビル・ゴサード自身について告発した複数の被害者の話もあります。

そのミニストリーから引き抜かれ、ビル・ゴサードのもとで働くことになった別の人の話をインターネットで見るまでは、彼女たちは自分たちだけだと思っていました。彼女たちは、ビル・ゴサードと2人きりで連れてこられたこと、彼に手を置かれたこと、足を揉まれたこと、仕事場でもどこでも相手の許可がなければあってはならないことを描写しています。しかし、ほとんどの女性は、そのようなことの背景を知らなかったのです。彼女たちは不快に感じましたが、彼はとても重要な人物でした。彼は彼女たちの知る限り誰よりも神に近い存在であり、それゆえに、彼が略奪的な行為をしているとは推し測ることができなかったのです。ネットで別の人の体験談を目にし、その後次々と名乗り出るようになって初めて、それがパターンであることを認識し始めました。

――虐待の話を次から次へと聞かされ、多年月を過ごすのはたいへんなことだったに違いありません。 この本の最後の方で、あなたはトラウマの情報に詳しくなってはいるがトラウマを「貰って」しまっているわけではない、という有益な区別を提示しています。それについて説明していただけますか?

 インタビューに臨む際には、自分の役割が何であるかを思い出しながら臨むことが重要です。私は単なる聞き役になるつもりです。彼女たちが語るすべての瞬間に細心の注意を払わなければなりません。私は自分の心を一歩外に置いておく必要があります。そうすれば、「正確にはいったいいつ起きたの? 何時ごろだったか覚えてる? 何を見ていた?」といった事実確認もできるし、もし彼女たちが金銭的なことに言及したなら、それを裏付ける書類を持っているかどうか冷静に考える必要があります。他の誰に話を聞く必要があるのか、彼女たちの話をよく確かめる方法に集中します。

このような二重のマインドフルネスによって、私は自分の心の層を外して巻き込まれないことができるのですが、1日の終わりになって、何かひどい経験をした人と話したばかりだと思い当たることもあります。私はそれを「貰ってしまわない」ように最善を尽くします。なぜならそれは私のことではないからです。この人たちの苦しみをすべて自分のことのように背負うのは間違っている、と私としては思っているのです。

(翻訳協力=中山信之)

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