女性は誤った聖書理解に縛られることなく、破滅的な結婚に終止符を打つことができる

クリスチャンは、破滅的な関係に苦しむことと霊的パートナーシップの中で自己犠牲的に行動することをどのように区別できるのか。アトランタの改革派神学校で神学研究の修士課程に在籍するブルーナ・サンティーニ氏が「クリスチャニティ・トゥデイ」に寄稿した。


約10年前、私は家族と私が何十年も前から知り合いだった信仰深い女性の葬儀に出席した。長年の友人であった彼女は、がん闘病の末に亡くなっており、辛い別れだった。

ブラジル中西部の故郷で行われた彼女の葬儀で、「彼女は悲しみのために病気になった」「これでようやく休める」という言葉を聞き、私は幼すぎて理解できなかったことをようやく整理できた。 彼女は死ぬまでDVに耐えていたのだ。

彼女はなぜそのような冷え切った関係、有害な状況に留まったのだろう。夫がいつか変わると信じ、離婚すれば救いを失うと信じていたからだ。

さらに酷いことには、夫の虐待にもかかわらず、誠実な結婚生活を続けることが神の願いであると信じ、その姿勢は牧師たちによって強化された。牧師たちは断食し、祈り、結婚生活に全力を尽くすよう彼女に助言し、彼女は亡くなるまでその習慣を守り続けた。

暴力的な夫婦関係に服従を求めることは、じわじわと苦しめるサディスティックな死刑宣告であり、その起源は長年の罪深い権力の乱用にある。私たちの人間関係には、時に自己犠牲が伴う。しかし、聖書を歪めて、霊的犠牲と配偶者からの暴力に耐えることを同一視するのは、まったくの誤りである。一方は完全な愛に根ざしたものであり、他方は破壊的な罪に根ざしている。

夫婦の重荷

このような暴力的で致命的な夫婦の負荷を維持することを正当化するために、私は多くの牧師やクリスチャンの指導者がペトロの手紙一3章1~2節を引用するのを聞いてきた。「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ御言葉に従わない夫であっても、妻の無言の振る舞いによって、神のものとされるようになるためです。神を畏れ敬うあなたがたの清い振る舞いを見るからです」

この箇所でペトロは、神を信じる女性たちに向かって、不信仰な夫に対して信仰の証人となる機会があると説いている。しばしば耳にする議論だが、ペトロは暴力的な夫(多くはクリスチャン)に服従し、その行動によって「黙して勝つ」ようにと、女性に勧めているのではない。

それどころか、マラキ書2章16節が示すように、聖書はこのような暴力を非難している。「私は離婚を憎む」と主は言われ、「衣服で暴虐を隠している」と明言していることは注目に値する。

それゆえ、虐待的な行為に服する結婚生活は神性とは無関係であり、神の言葉に基づくものではない。それは愛の絆ではなく、むしろ殺された動物を壁に固定する矢のようなものだ。その仕草は捕食者が感情的に許しを請い、変化を約束することで愛を偽っても、腐敗している獲物に自らの罪を隠すために香水を吹きかける行為に過ぎない。

では、虐待的な関係で苦しむことと、霊的な結婚生活で自己犠牲的な行動をとることをどう区別するのだろうか。後者では、夫婦ともにイエスの言葉に従い、自分の十字架を手にする。それぞれの夫婦は、相手への愛のために、自分の衝動や欲望を否定する。この別々の肉体が死ぬことによって、新しい命が生まれ、この結婚によって復活が具現化されるのだ。

誰の責任か?

聖書のメッセージとは裏腹に、教会の指導者が結婚生活の状態について加害者の責任を問うのを見たことはほとんどない。ある牧師は、離婚はあまりにも大きな罪であるため、何としても避けるべき悲劇であると考える。

教会指導者は、虐待された結婚生活に留まる女性を「良い妻」とし、困難な状況でも耐え抜いたと賞賛することがある。クリスチャンは、神は人を変えると信じているので、妻には夫を変える責任があり、夫がついに変わった時、妻の粘り強さが証明されると考える人もいる――彼らにとっては、「ただ離婚する」よりもずっと美徳に思えるのだ。

クリスチャンは、妻はこの状況を徳にあふれる機会として捉える必要があり、離婚を申し出るのは信仰的ではないと考えることがあまりに多い。DVが要因となった離婚を女性のせいにすることは、罪を転嫁し、彼女が夫の行動に最終的に責任があることをほのめかしている。男性救済の霊的責任を妻に負わせることは、男性の最悪の状態を最高の状態に変えること、つまり、イエスの仕事をすることを妻に求めることだ。さらに、これはしばしば女性が変化の傷を負うことを意味する。

それが本質的に女性的な役割であるかのように、暴力的な夫に耐えながら女性がこの結婚の重荷を負うべきだという考えは、モラルに欠けるだけでなく、非聖書的でもある。それは、男性は花嫁のために命をささげるキリストのような救済者として位置づけられるエフェソの信徒への手紙5章25~28節の、パウロによる結婚の理想と衝突する。この意味で多くの人は、犠牲的な愛が第一に、明確に男性に要求されている聖書の基準を逆にしている。聖書における夫婦の契約は、捕食的な死の契約ではなく、復活の契約であり、そこでは愛の犠牲はキリストの犠牲によって触発されるのだ。

神は、暴力や不倫をした男であっても、すべての人を回復させることができる。しかし、彼らは自分の行いの結果を負うべきであり、この回復は、その人が傷つけた人とまだ接触できるようなところで行われるべきではない。イエスはすでに私たちの傷を負われ、内面の変革は聖霊の働きによるものだ。したがって、いかなる女性も、たとえ自分の夫への愛のためであっても、いかなる人間の魂の愛のために、強いられて命を危険にさらす必要はないのである。

歓迎すべき変化

今年初め、本紙「クリスチャニティ・トゥデイ」は、家庭内暴力の被害者に結婚生活を続けるよう指導するアメリカの教会を報じた。この記事は胸が痛むものだったが、多くのクリスチャンが指導者の行動を不適切と見なし、過去にこの行動が「普通」または「許容範囲」と考えられていたとしても、それは間違っていると理解していることが、この記事への反響から分かった。おそらくいま問うべきは、「どうしてこんなことになってしまったのか」より、「どうしてこんなに長い間、そんな惨状だったのか」「どうしたらこの状況を良い方向に変えられるのか」ということなのだろう。

2019年、女性に対する暴力への対決について福音派の間で議論が起こる中、補完派(結婚生活において、男女は異なるが補完的な役割や責任をもつという考え方)の神学者ウェイン・グルーデムは、コリントの信徒への手紙一7章15節の再解釈を共有した。約40年間の宣教の後、グルーデムは、暴力と虐待を(姦通と家庭内義務放棄に加えて)離婚の原因として認めることを可能にする解釈学的転換を共有した。DV被害者のカウンセリングを長年してきた者として、私はこのような大きな変化を歓迎する。

明日生きていられるかさえ分からないのに、結婚生活を続けるよう女性にアドバイスすることが、結婚制度を維持するために機能しないのは明らかだ。絶望的な女性に、このような服従には聖書的な論拠があると助言することは、結婚契約そのものがすでに破綻しているのに、偽りで表面的な夫婦像を維持するためにみ言葉を曲解することだ。

「クリスチャニティ・トゥデイ」編集長のラッセル・ムーアが昨年書いたように、「一方の配偶者が家庭を放棄しても、それは罪のない当事者の責任ではないと聖書は明示している。ある配偶者が家庭を一方の配偶者(またはその子ども)にとって危険な場所にしてしまったとしても、それもまた悪意のない者の責任ではない。このような場合、離婚は罪ではなく、まず第一に一身同体の契約が解消されたことを認識することであり、虐待を受けた配偶者は離婚することにうしろめたさを感じるべきではない」

私の最も切なる祈りは、夫の虐待に苦しむ女性たちが、牧師たちから慰めと支えを得ることができるように、そして、人々が彼女たちを失望させる時はいつでも、彼女たちがみ父の守りを見ることができるようにということだ。彼女たちを見ている神はおられ(創世記16章)、彼女たちに死の契約を続けることを要求しておられるのではない。むしろ、イエス・キリストが来られたのは、彼女たちが命を持つため、しかもそれを豊に持つためなのだ(ヨハネによる福音書10章10節)。神は、男の命のための生贄として、女性が死んだり、殴られたりすることを必要としない。キリストはすでに最高で究極の供え物をしてくださったのだ(ヘブライの信徒への手紙10章12~14節)。

ブルーナ・サンティーニ氏は、ブラジルと、今彼女が家族と暮らしている米国で家族法に携わり、DV被害者の相談に乗ってきた。

(翻訳協力=中山信之)

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