【論点2022】 オンライン化で問われる新しい共同体 コロナ後の教会の可能性 仲程愛美(日本基督教団石橋教会牧師)

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Image by Tran Mau Tri Tam from Pixabay

新型コロナウイルス感染症は世界を一気にオンライン化へと加速させた。その波は例外なく日本にも押し寄せ、積極的あるいは消去的にせよ、教会はオンラインによる主日礼拝や祈祷会を取り入れるようになった。急速に対応をせざるを得なかった教会は、今、この変化とどう向き合っているのか。何を課題として抱えているのか。

変化に順応し教会の歩みを続けてきている私たちだが、果たしてこのままで良いのかという疑問が湧いてくる。気づけば教会はオンラインという新しい手段を手に入れ、現時点では、感染症の大流行にも対処できる術を身につけたような錯覚さえ覚えてはいないだろうか。コロナの大流行という事態に見舞われ、変化を経験した今だからこそ、気づく、見つめ直すことができないか。

初代教会は、人々が一つの家に集まり、心を一つにして祈り、一緒に食事をとりながらその信仰を育んだ。教会の原点は「共にいる」ことから始まっている。共に祈り、共に賛美し、共に聖書を読み、共に食卓を囲む。ところが私たちが経験した変化は、「共に」が憚られ「集う」ことを控えなければならない現実であった。

だが「共に」「集う」ことを中断したことにより教会活動は削ぎ落とされ、神を礼拝するというその核心が露わになった。

岐路に立たされる教会
福音を届ける使命果たせていたか

どこにいようと、一人であろうと、神を礼拝することはできる。神への賛美と祈りをささげる共同体が教会なのだということを想起し、教会に連なる一人ひとりが、礼拝する者としての能動的、積極的な姿勢が問われたように思う。

教会活動のオンライン化はそうした礼拝する者、信仰者としての姿勢を支える手段になり得たのか。もう一歩踏み込んで問うならば、教会が「交わり」の手段を方向づけてしまわなかったか。結論を出すには時期尚早だが、今後オンライン化によって生じる弊害を視野に入れておくべきだと考える。

教会は「共に」「集う」共同体として歴史を歩んできた。要因は異なれど、教会はこれまでに幾度となく「集えない」経験をしてきたが、「集う」ことをやめなかった。顔と顔を合わせ、共に祈り、賛美し、食卓を囲む「交わり」を求め続けた人々がそこにいたからだ。教会はこうした「交わり」を守り続けてきた。

そのような過去の歩みと、現在のオンライン化による集わずとも「交わり」が可能になった現状は、本来ならば相容れないはずだ。しかし、現実は並行して両方の「交わり」が続けられている。教会の「交わり」が双方向に視野を向けつつ、求める人々の思いをかたちにして「交わり」を続けていくことは可能なのかもしれない。

扉が開かれ、誰もがいつでも教会に触れることを可能したオンラインは、教会にとって大きな前進だったと言える。教会や礼拝へのハードルが下がり、気軽に礼拝に参加できる方法が確立されつつある。しかし、ここでは注視しておきたいのは、こちら(教会側)の意図する教会と、受け手(視聴側)が画面越しに出会う教会が、必ずしも一致しないという点だ。教会は福音を届けたい、受け手はただ癒やしの空間を求めている、そのようなケースが想定できるのだ。つまり、たまたま受け手は教会に出会っただけであって、教会を求めていたわけではなかった。

もちろん、教会に対する思いや、求める事柄に違いはあるであろう。従来は初めて教会に訪れる人々と、対面して出会うことにより、相手の表情や雰囲気から教会への期待を少なからず察知することができた。完璧ではないにせよ、教会がこれまで培ってきたコミュニケーションは、教会に訪れてきた人を対象に、教会共同体へどのように迎え入れるかということだった。だが、オンライン上で起きていることは、教会の目の前を通りすぎる人を、いきなり礼拝の席に座らせている状態もあり得るということだ。

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オンライン化により容易で、便利に教会と出会えることは、新たな宣教のステージが広がったことを意味している。教会に来なくとも、教会を知り、福音に触れ、イエスと出会うことが可能になっている。私たちはこれまでにそうした局面を知らない。文字通り、教会として前例のない宣教の場面に差し当たっているのだ。このことをきちんと自覚しておきたい。誰もが好きな教会の礼拝、好きな牧師のメッセージを取捨選択できる。検索エンジンにかけ、好みのものをショッピングするかのように、教会を選ぶことが可能になったのだ。教会が一種のコンテンツとなってしまう。そのような岐路に立たされているという危機感を拭えない。

教会はこれまで、建物としての教会に来てもらい、共同体としての教会の中で出会い、関係を築くことを宣教の業の一つとしてきた。それがオンライン化によってかたちが変わりつつあることを、私たちがどれだけ思いを巡らせ捉えていけるか。この課題は現代社会からの教会に対する大きな挑戦なのだ。

教会はかたちあるもの、つまり、建物と共同体を有する「場」として存在している。私たちはこれまでこの「場」に安住していなかっただろうか。教会が存在さえしていれば、福音は届けられる。これはある意味では正しく、これまで私たちが守り続けてきた教会のかたちでもある。存在し続けること、ここに教会があるということが、教会と出会う機会を与え続けてきた。

そう振り返る一方で、存在する教会は、福音を届ける教会であったかを自問する。人々に対して、社会に対して、教会はどれだけ働きかけてこられたのか。昨今の教会員の減少、若い世代が教会に訪れないといった事柄は、突き詰めていけばこれまでの教会の歩みがもたらした結果でもある。こうした教会のあり方が真剣に問われている。オンラインという新たな方法を手に入れ、社会との接点が身近になったことで、これまでの問題が解決できるわけではない。教会と出会う、福音を届ける働きかけは一人ひとりに問われていることを心に留めていきたい。(なかほど・まなみ)

 

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