第50回ジュリア祭 流罪のキリシタン女性が最も望んでいたもの

 

「ジュリア祭」が17~19日、伊豆七島の一つ、神津(こうづ)島(東京都)で行われた。徳川家康に背いて、この島に流刑となったキリシタン女性「ジュリアおたあ」を記念する祭典で、今年で50回目を迎える。

(写真:神津島村役場提供)

島の人だけでなく、遠くは北海道や近畿、九州から参加した一般の人やカトリック信者など120人あまりが神津島に巡礼の旅をした。今年のミサは、浦野雄二(うらの・ゆうじ)神父と稲川圭三(いながわ・けいぞう)神父が担当する。

18日午後、ジュリア顕彰広場で野外ミサがささげられ、その後、神津島高校体育館で日韓友好親善芸能大会が行われた。夕方、神津港船舶待合所(まっちゃーれセンター)で第50回ジュリア祭記念式典が開かれ、続いて参加者全員での夕食会。夜は、ありま展望台の十字架がライトアップされるという。

「ジュリア祭」が始められたきっかけは、伊豆七島の司牧を命じられたカトリック東京教区の杉田栄次郎神父が墓地の中にある石塔に気づいたこと。島の人がそれを「宝塔様」と呼んで、白い海砂を敷いて花を飾るなど、大切に守っており、それがジュリアの墓だと説明されたのだ。

その後、島の有志がカトリック東京教区に働きかけ、1970年5月、第1回の「ジュリア祭」が開かれることになった。ことの時は巡礼団およそ360人が訪れ、濱尾文郎(はまお・ふみお)枢機卿の司式のもと、ミサがささげられた。以降、白柳誠一(しらやなぎ・せいいち)枢機卿らがミサをささげ、韓国から司教率いる巡礼団や駐日教皇大使が参加したこともある。

ジュリアおたあは平壌付近の出身で、豊臣秀吉の朝鮮出兵のときに保護された後、キリシタン大名の小西行長(こにし・ゆきなが)夫妻のもとで育てられ、その影響で洗礼を受けた。「ジュリア」は洗礼名。1600年の「関ヶ原の戦い」で敗れた行長が処刑された後、徳川家康によって駿府城(静岡市)の大奥に召し上げられ、家康付きの侍女となった。そこで、他の侍女や原胤信(はら・たねのぶ)ら家臣をキリスト教信仰に導いたといわれる。

「美しく賢い」(当時の宣教師の報告書による)おたあは家康に寵愛されるが、側室になることを受け入れず、また棄教することも拒んだため、1612年、伊豆・網代(あじろ)から伊豆諸島の大島、新島を経て、最終的に神津島へと流刑にされた。

残された資料によると、ジュリアは島で熱心に信仰生活を守り、見捨てられた弱者や病人の保護、自暴自棄になった若い流人への感化など、島に住む人に献身的に尽くしたとされる。ただ、彼女は流罪になるとき、「最もつらいのは、告解もできず、ミサにもあずかれないこと」と、涙ながらに嘆いたとイエズス会の年次報告書には書かれている。そのジュリアが最も望んでいたミサをささげ、あずかるのが、この「ジュリア祭」なのだ。

(写真:国土地理院)

 






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