【東アジアのリアル】 「私は私でない私」:台湾元総統李登輝逝く 高井ヘラー由紀 2020年10月11日

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7月30日、台湾元総統の李登輝が97歳で逝去した。初の「本省人」(台湾出身者)総統として、国民党一党独裁体制下にあった台湾を平和裏に民主主義に移行させた奇跡の政治家は、一時は牧師になることを志した敬虔なクリスチャンであった。

10代半ばから「自我」「生死」「人は何のために生きるのか」などの哲学的問題に悩み、ゲーテ、トマス・カーライル、新渡戸稲造、西田幾太郎などに感化されるような多感な若者であった。植民地統治下台湾の旧制台北高校で教養を身につけ、農業経済学研究を志して京都帝国大学に進学したが、戦争のため学びは中断され、日本で終戦を迎えた。戦後の混乱期に台湾大学で学びを継続、卒業後は台湾大学で教鞭をとる傍ら農業経済技師として経験を積み、奨学金を得てアイオワ州立大学、コーネル大学で修士号および博士号を取得した。

もともと長老教会系の淡水中学校でキリスト教信仰に触れてはいたが、受洗に導かれたのは1961年、妻である曽文惠が当時集っていた「召会(「集会所」とも)」(中国大陸の倪柝聲=ウォッチマン・ニー=に遡るキリスト集会)においてである。のちに長男の死をきっかけに台湾基督長老教会済南教会(元台北日本基督教会)に転入会した。

農業経済学研究者として国際的に知られるようになった李を1970年代、政治の世界に抜擢したのは当時の行政副院長(副総統に当たる)蒋経国(蒋介石長男)である。その後ろ盾を得て、「外省人」(中国大陸出身者)が権力を握る政界の中で行政院政務委員に就任、その後「本省人」でありながら台北市長、台湾省主席、副総統を歴任し、総統であった蒋経国の逝去に伴って1988年に総統代理に就任した。1990年に正式に総統に就任して以降は、「万年議員」(一般選挙がないため議員は終身制であった)を相手に数々の困難な政治改革を成し遂げ、全面改正選挙(1992年)、総統直接選挙(1996年)を実施、自身が初の民選総統に選ばれた。その4年後の総統選では民進党の陳水扁が総統に当選し、台湾において初の政権交代が平和裏に実現した。

タイムズ誌でミスター・デモクラシーとして取り上げられた李登輝(1996年)

「一つの中国」を押し付ける中国に対して「特殊な国と国の関係」と巧みに対応し、民主化する台湾社会に対しては「心霊改革」「新台湾人」などの言葉でビジョンを示すなど、抜群の機知と言葉の感覚で状況を切り拓いた。

本来、李は35歳で受洗する前、60歳になったら山地伝道(台湾先住民族への伝道)に献身するようにとの神の召しを受けていたという。しかし60歳になった時に蒋経国から副総統になる要請を受け、かつて蒋介石夫妻の牧師を務めた周聯華から、「今や国家があなたを必要としている。副総統として国や人々のために働くことは、より重要なことだ」との趣旨の手紙を受け取り、国家のために尽くす決心をした。そして伝道の代わりに、蹂躙(じゅうりん)されていた先住民の人権を取り戻すために尽力した。

日々崖っぷちに1人で立たされるような困難な状況の中で、神のみに寄り頼みながら奇跡的というほかない政治改革を断行した。それを支えたのは、毎晩、妻と一緒に聖書を読み、共に祈る時間だったという。数々の聖句から平安を与えられた李だったが、中でもガラテヤ書2章20節から、「私は私でない私である(我不是我的我)」との心境に達したという、誠に得がたい政治家であった。

高井ヘラー由紀
 たかい・ヘラー・ゆき 1969年ニューヨーク生まれ。国際基督教大学卒、同大学院博士後期課程修了。恵泉女学園大学非常勤講師、明治学院大学非常勤講師などを経て、台湾南神神学院助教授。日本基督教団信徒派遣宣教師。

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