真っ先に解雇対象になるチャプレンたち 【関野和寛のチャプレン奮闘記】第1回

米ミネソタ州ミネアポリスのコロナ病棟での修業を経て、帰国後は在宅医療、ホスピスの現場で奮闘する関野牧師。「アメリカのコロナ病棟から 関野和寛のゴッドブレス」に続く連載シリーズ第2弾がスタート。

コロナショックは人、物、そして経済の動きに前触れもなく急ブレーキをかけた。そして緊急停車をした車内では、踏ん張りのきかない者からなぎ倒されていく。パンデミックの中、必死の思いで渡米し、病院付き聖職者、チャプレンとして働き出せた私もその一人だ。病院の収入がパンデミック前の7割近くにまで落ち込み、費用削減を迫られている。そして真っ先に白羽の矢が向けられるのがセラピストやチャプレンだ。すぐに人命に直結しないように思われるセクションが、その対象になってしまう。近隣ではチャプレン室を閉じた病院も存在する。

アメリカの医療界にはこれまでになかったような激震が走っている。コロナ患者が増え続け、病床使用数が逼迫し、過酷な労働条件の中で多くの看護師たちがバーンアウトしたり、離職してしまっている。多くの病院が看護師不足に陥り、短期間で州外からでも雇うトラベルナースを確保することに躍起だ。しかもこの短期間契約のトラベルナース、日本円にして時給3万円もくだらないケースもある。

コロナショックにより、私の住む街も治安が悪化。空き巣、車の強奪、黒人市民の子ども複数人が何者かに銃で撃たれたり、病院のロビーで銃乱射事件さえ起きた。そのような中で病院は警備員をさらに雇いはじめる。日本の警備員は制服に身を包んだ優しそうなシニア男性がほとんどだが、こちらはそうはいかない。刺青だらけのプロレスラーのような警備員が、病院ロビーで臨戦態勢でにらみをきかせている。セラピスト、チャプレンが人員削減の対象になり、警備員が増える。これが目の前の現実だった。

そのような状況下、院内では感染予防のために患者家族、友人はお見舞いに来ることができない。言うまでもなく患者はこの上ない孤独の中に取り残される。自分が癒やされるのか、手術がうまくいくのか、治療費を払うことができるか、家に残してきた家族の介護……。病巣や傷口だけではなく、自分の存在そのものが悲鳴を上げているのだ。

誰がその魂に薬を処方するのか、誰がその傷口にガーゼを貼るのか。私はそれこそがチャプレンの仕事だと信じている。薬1錠も処方できないし、ガーゼの1枚も張り替えることは許されていない。けれども苦しみ、その中で希望を探そうとする人々の横に座ることが許されている。チャプレンがいても診療報酬が増えるわけでは一切ない。コロナショック、経済危機の中で病院経営も限界に立たされている。セラピーや魂のケアは削減できても、薬、食事、清掃は削ることができない。だが、同時に命も削ることはできない。

確か神の子イエスが言っていた「人はパンだけで生きるのではない」と。本当にそうだ。人は痛み、泣き、そしてそれでも笑える瞬間を生きている。その一瞬をつくるチャプレンが必要だ。数値化できないチャプレンの仕事。でも数値化するならこの1日、誰かと一緒に涙することができて、誰か1人と笑い合えることができたら、これ以上豊かな時はない。

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 イエスはお答えになった。 「『人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』 と書いてある。」(‭‭マタイによる福音書‬4章1~4節=‭新共同訳)‬‬

*個人情報保護のため、所属病院のガイドラインに沿いエピソードは再構成されています。

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