【米クリスチャニティ・トゥデイ】伝道への恐れを克服するには──伝道への確信は神の愛から来る

神への愛が冷めてしまったらどうすればよいか

イエスの福音を伝えることに関心を失ってしまっても、自分を責めてはならない。罪悪感には何の意味もないからだ。けれども、「そのままでよし」としてしまうのもよいことではない。

この状況をどう受け止めるべきか。おそらく、キリストの復活後に使徒ペトロに与えられたのと同じような回復が私たちにも必要なのだ。ご記憶のとおり、ペトロは3度イエスを知らないと言った(マルコ14章ほか)。しかしそれでも、ペトロに対するイエスの愛は衰えなかった。イエスが復活した後、墓にやって来た婦人たちに向かって天使は、イエスがよみがえったことを「弟子たちとペトロに告げなさい」(マルコ16:7)と言った。ペトロも〔変わらずに〕弟子の一人に含まれていることを確実に分からせようとしたのだ。

さらに、復活されたキリストがガリラヤ湖(ティベリウス湖)畔でペトロに会った際には、「わたしを愛しているか」(ヨハネ21:15)と問われた。ペトロは、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(同)と答えた(このときペトロが使ったのは〔原語では〕「友情」という単語であり、イエスが使った「愛」という単語ではなかった)。重要なのは、「再び弟子となるために、頑張ってキリストを愛しなさい」とイエスはペトロに言われたのではなかったということだ。

代わりにイエスが言われたのは、「わたしの小羊を飼いなさい」(同)だった。イエスがペトロに伝道を命じられたのは、ペトロが書いた本や取得した学位の数、履歴書の際立った業績のゆえではなかった。そうではなく、ペトロがキリストを愛するがゆえに「仕えよ」と命じられたのだ。しかもその愛は、完全な愛ではなく、ただ及第点の愛だった。

もっと言うなら、キリストによってペトロが伝道に召されたのは、〔ペトロの愛ではなく〕イエスの愛のゆえだった。

私たちがキリストのことを伝えていないのなら、もしかすると、もしかするとだが、それは「初めのころの愛」(黙示録2:4)を失ってしまったせいなのかもしれない。そうだとするなら、愛は簡単に回復することができる。

月は自分では光を発しない。それでも、太陽の光の中にとどまるかぎり、月は光り続ける。私たちクリスチャンは月と同じだ。私たちを照らす御子の光から受ける愛を、自然に、簡単に、人に対しても放つことができるはずなのだ。

あなたのことをイエスがどう思われるかではなく、他人がどう思うかを心配する偶像崇拝を捨て去ろう。そして、神があなたを愛しておられることを思い出そう。このことを胸に、「神は私を愛してくださる。あなたのことも愛しておられる」と皆に伝えよう。

本稿執筆者のジェリー・ルート博士は、ホイートン大学(米国イリノイ州)教授(伝道学)。同大学ビリー・グラハム・センター伝道構想部長。

本記事は「クリスチャニティー・トゥデイ」(米国)より翻訳、転載しました。

出典URL:
https://www.christianitytoday.com/edstetzer/2018/august/how-can-we-overcome-our-fear-of-evangelism.html

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