わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大なカが神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。(コリントの信徒への手紙二 4章7節)
「土の器」であるというのは、人間はもろい存在であるという告白であると同時に、陶工が粘土で器を作るように、神に造られた存在であるという告白である。器の存在価値は、器そのものでなく、その中に何を盛るかによる。神は私たちを神の栄光を盛る器として造られた。
私たちは神の栄光のために、与えられた務めを果たしていこうとする時、さまざまな苦しみに直面し、自分の罪と無力を知る。しかし、その中でこそ、私たちは神の力を知る。今日の聖句が語るように、私たち信仰者は自分の中から出てくる力ではなく、並外れて偉大な神の力によって生きている。だから、苦しみから逃げるのではなく、進んで大変だと思われる働きを引き受ける。苦しみに会うことは、神に愛されている証拠である。
信仰生活とは、平穏無事な道を求めることではない。すすんで主の務めを引き受けることである。それは、自分の罪と無力をさらけ出すことになるだろう。行き詰まることもあるだろう。しかし、そこでこそ祈らされる。そして、不思議に道が聞かれてゆく経験をする。私たちはどんな時にも一人ではなく、神が共にいてくださるのである。私たちは善き力に守られているのである。「過ぎた日々の悩み重く、なおのしかかる時も、さわぎ立つ心しずめ、み旨に従いゆく…善き力に守られつつ、来るべき時を待とう。夜も朝もいつも、神はわれらと共にいます」(ボンヘッファー『新生讃美歌』73)。

西南学院大学神学部卒業後、日本バプテスト連盟の教会で牧会、鹿児島大学哲学科のカトリックの神学の学びから、鹿児島ラ・サール高校でも教える。日本バプテスト連盟宣教室主事、日本バプテスト連盟常務理事を8年間務める。