わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。(コリントの信徒への手紙二4章1節)
パウロは使徒の栄光について述べたが、彼の現場は決して栄光に輝くものではなかった。彼は迫害され、中傷され、諸教会のことで心配させられた。その度に彼は落胆した。使徒の務めを担う現場で、パウロは何度も落胆の経験をした。今日の聖句は、落胆を経験した伝道者が、無力な者を立ち上がらせ、務めを委ね続けてくださる神の憐れみを感謝して語る言葉である。神は御子を通して私たちに神の憐れみを現された。神の御心(みこころ)に従っていなかった私たちは捨てられて当然だったのに、神は捨てないで、御子によって罪を贖(あがな)い、「わたしの子よ」と呼んでくださった。キリストによる神の憐れみを受けた時、私たちの生涯は変わった。神の憐れみが、生きる時も、死ぬ時も、私たちの慰めとなった。しかも、神は罪人の頭のような私たちに伝道の務めを委ねられた。この神の憐れみのゆえに、私たちは「落胆しない」。私たちは依然として無力な人間であり、落胆するであろう。しかし、キリストを仰ぐ時、神の憐れみが私たちを立ち上がらせ、務めを担う力を与えてくださる。
そこでパウロは言う。「わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝え」(5節)ると。伝道は自分を売り込むことでも、勢力を広げることでもない。「神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心に委ね」(2節)るのである。伝道は信仰を強要することではない。キリストの福音を明らかにして、聞く人の主体的な応答に委ねるのである。神の憐れみは人間の自由を大事にする。

西南学院大学神学部卒業後、日本バプテスト連盟の教会で牧会、鹿児島大学哲学科のカトリックの神学の学びから、鹿児島ラ・サール高校でも教える。日本バプテスト連盟宣教室主事、日本バプテスト連盟常務理事を8年間務める。