7月22日「憐れみを受けた者として」

わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。(コリントの信徒への手紙二41節)

パウロは使徒の栄光について述べたが、彼の現場は決して栄光に輝くものではなかった彼は迫害され、中傷され、諸教会のことで心配させられたその度に彼は落胆した使徒の務めを担う現場で、パウロは何度も落胆の経験をした。今日の聖句は、落胆を経験した伝道者が、無力な者を立ち上がらせ、務めを委ね続けてくださる神の憐れみを感謝して語る言葉である。神は御を通して私たちに神の憐れみを現された。神の御心(みこころ)に従っていなかった私たちは捨てられて当然だったのに、神は捨てないで、御によって罪を贖(あがな)い、「わたしの子よ」と呼んでくださったキリストによる神の憐れみを受けた時、私たちの生涯は変わった。神の憐れみが、生きる時も、死ぬ時も、私たちの慰めとなったしかも、神は罪人の頭のような私たちに伝道の務めを委ねられた。この神の憐れみのゆえに、私たちは「落胆しない」。私たちは依然として無力な人間であり、落胆するであろう。しかし、キリストを仰ぐ時、神の憐れみが私たちを立ちがらせ、務めを担う力を与えてくださる

そこでパウロは言う。「わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストをべ伝え」(5節)ると。伝道は自分を売り込むことでも、勢力を広げることでもない。「神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心に委ね」(2節)るのである。伝道は信仰を強要することではない。キリストの福を明らかにして、聞く人の主体的な応答に委ねるのである。神の憐れみは人間の自由を大にする

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