一日の発見
-
6月5日「本当に、この人は神の子だった」
イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。(マルコによる福音書15章39節)
-
7月5日「あなたがたはキリストの体」
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。(コリントの信徒への手紙I 12章27節)
-
5月3日「わたしが来たのは、罪人を招くため」
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マルコによる福音書2章17節)
-
9月19日「神から出たものであれば、滅ぼすことはできない」
あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかし…
-
3月30日「苦難をも誇りとします」
そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むと…
-
4月13日「良い知らせを伝える者の足は」
良い知らせを伝える者の足はなんと美しいことか。(口ーマの信徒への手紙10章15節)
-
4月3日「義のための道具として神に献げなさい」
自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。(ローマ信徒への手…
-
8月23日「憐れに思い」
まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐(あわ)れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。(ルカによる福音書15…
-
7月7日「最も大いなるものは、愛である」
信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(コリントの信徒への手紙I 13章13…
-
4月24日「強くない者の弱さを担う」
わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うへきであり、自分の満足を求めるべきではあリません。(ローマの信徒への手紙15…
-
3月28日「その信仰が義と認められます」
不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。(ローマの信徒への手紙4章5節)
-
7月28日「神に仕える者として」
わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてそ…
-
6月23日「神から賜物をいただいている」
人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。(コリントの信徒への手紙I 7章7節)
-
1月31日「私が来たのは、剣をもたらすため」
私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。(マタイ10:…
-
3月16日「なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」
わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。(マタイによる福音書27章46節)
-
3月27日「神の恵みにより、義とされる」
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。(ローマの信徒への手紙3章24節)
-
9月26日「熱心な祈りがささげられていた」
ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。(使徒言行録12章5節)
-
6月2日「十字架を無理に担がせた」
そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの…
-
2月8日「両方とも育つままにしておきなさい」
いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。(マタイによる…
-
8月17日「災難に遭ったのは、罪深い者だったからだと思うのか」
そのガリラヤ人たちが災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。…